コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

バビロン捕囚 バビロンほしゅうBabylonian Captivity(Exile)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

バビロン捕囚
バビロンほしゅう
Babylonian Captivity(Exile)

前 597~538年にわたってイスラエルのユダヤの人々がバビロニアネブカドネザルによってバビロニアに捕囚となった事件をさす。捕囚民は『エレミヤ書』 52章 30によれば,前 597,586,581年の前後3回にわたって 4600人と記されているが,これは男子のみをさしているので,全体では約1万 5000人ぐらいであろう。当時ユダヤの人口は約 25万人であったが,捕囚民は支配階級に属する者や技術者であったので,残された民は衰退した。バビロニアでは宗教的自由は許されたが,エルサレム神殿において行なっていた祭儀を失ったので,それにかわって安息日礼拝が中心になり,会堂 (→シナゴーグ ) における律法の朗読と祈祷を中心とする新しい礼拝様式が始められた。またこの時期にモーセ時代から彼らの時代までの歴史,すなわち『申命記』から『列王紀』が編纂された。したがって預言活動はやんで,かわって律法学者や書記が祭司と並んで重要な位置を占めるようになり,旧約の宗教は「書物の宗教」の性格を強めていった。そして前5世紀後半にネヘミアエズラが帰国して新しい法典のもとに民族の再建をはかり,ここにユダヤ教が成立することになった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル大辞泉の解説

バビロン‐ほしゅう〔‐ホシウ〕【バビロン捕囚】

新バビロニア王国ネブカドネザル2世ユダ王国を滅ぼした際、イスラエル人をバビロンに連行・移住させた事件。第1回は前597年、第2回は前586年に行われた。前538年、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアの王キロスによって帰還を許された。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

百科事典マイペディアの解説

バビロン捕囚【バビロンほしゅう】

新バビロニア国王ネブカドネザル2世が南ユダ王国の首都エルサレムを2回(前597年,前586年)にわたって破壊,同地方を属州化し,貴族・軍人・工人等11万人以上をバビロニアに移した事件。
→関連項目キュロス[2世]シナゴーグ新バビロニア

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典 第2版の解説

バビロンほしゅう【バビロン捕囚 Babylonian Exile(Captivity)】

バビロニア人が,ユダとエルサレムの住民の大多数を捕らえバビロニアに移した事件のこと。〈バビロニア捕囚〉ともいい,第1次捕囚(前597)または第2次捕囚(前586)から,キュロスの神殿再建許可の勅令(前538)または神殿完成(前515)までをイスラエル史における〈バビロン捕囚時代〉という。アッシリアによる北イスラエル10部族の捕囚(《列王紀》下15)と北イスラエル王国の滅亡(前722)に続く世紀,アッシリアの衰退後,南ユダ王国の国力回復の試みは,ヨシヤ王がメギドで死んで挫折し,代わって即位したその子エホアハズもエジプトに連行されて死に,エジプトは前605年ネブカドネザルによりカルケミシュで敗れた。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

バビロン捕囚
ばびろんほしゅう
Babylonian Exile

古代イスラエル民族のユダ王国が新バビロニア王国によって征服された際、多くの住民がバビロンへ強制移住させられた事件。紀元前597年、新バビロニアの王ネブカドネザル2世の攻撃を受けたユダ王エホヤキンは降伏し、数千人の貴族、聖職者および中産階級の国民とともにバビロンに連行された。その後、ユダは半独立国の地位にとどまり、王位はゼデキアに継承されたが、彼が反バビロニア派に動かされ、反乱に加担したため、ネブカドネザル2世はふたたびエルサレムを略奪し、建物を焼き、砦(とりで)を撤去し、住民の大部分を捕囚の身とした(前586)。逃亡を図ったゼデキアはエリコで捕らえられ、目の前で家族全員が虐殺され、自らは盲人とされ、足械(あしかせ)をかけられてバビロンへ連行されたという(『旧約聖書』列王紀)。その後、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアの王キロス2世が前538年に発した「民族解放令」によって帰還を許された。バビロン捕囚はイスラエル人にとって大きな民族的苦難であったが、この間の精神的労苦はかえって民族の一致を強め、信仰を純化する端緒となった。また、それ以前に書かれてきた『旧約聖書』の律法書、歴史書、預言書、詩などが集成された時期としても重要な意義をもっている。バビロンから帰還後、国家建設はならなかったが、エルサレムに再建した神殿を中心としたユダヤ教団が成立し、彼らはユダヤ人とよばれるようになった。[漆原隆一]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典内のバビロン捕囚の言及

【エルサレム】より

…大きく南東隅に広い平たんなスペースをとって,イスラム教徒がハラム・アッシャリーフal‐Ḥaram al‐Sharīf(高貴なる聖所)と呼ぶ区域があり,ここに金色に輝く岩のドームアクサー・モスクとがある。この区域はもとソロモンの建立した第一神殿,またバビロン捕囚後に再建された第二神殿があった場所で,モリヤMoriahの丘とも呼ばれた。ハラム・アッシャリーフを囲む東・南・西側の壁は,ヘロデ王時代以来のものと見られるが,その西壁(ハ・コテル・ハマーラウィー)には第一神殿の遺構があると考えられ,近代においてユダヤ教徒はこれを〈嘆きの壁〉として特に重要視するようになった。…

【ユダヤ教】より


[〈ラビのユダヤ教〉時代]
 前586年にユダ王国が滅亡し,エルサレム神殿が破壊されて古代イスラエル時代は終わる。その後約半世紀続いたバビロン捕囚の苦難を通して,古代イスラエルの宗教的遺産を民族存続の基本原理とする共同体〈ユダヤ人〉が成立した。前538年にペルシアのキュロス2世が捕囚民の解放令を発布すると,一部のユダヤ人は故国に帰還して,エルサレム神殿を再建した。…

※「バビロン捕囚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

バビロン捕囚の関連キーワードネブカドネザル[2世]アケメネス朝ペルシアネブカドネザル二世教皇のバビロン捕囚クレメンス[5世]アビニョン捕囚イスラエル人第3エズラ記エゼキエル書ディアスポラキュロス二世ゼカリヤ書ソフェリムゲリジム山ヘブライ語エゼキエルネヘミヤ記オバデヤ書ユダヤ人ハガイ書

今日のキーワード

ムガベ大統領

1924年、英植民地の南ローデシア(現ジンバブエ)生まれ。解放闘争に参加し、80年にジンバブエを独立に導いた。同年から首相、87年から大統領として実権を握り続けた。2000年以降は白人農場主の農園を強...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

バビロン捕囚の関連情報