バビロン(英語表記)Babylōn; Babylon

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

バビロン
Babylōn; Babylon

イラクの首都バグダードの南方約 90kmにあった古代都市。現ヒルラー近郊。バビロニア名バビル,聖書ではバベルと呼ばれた。ユーフラテス川のほとりに位置し,シリアとペルシア,チグリス,ユーフラテス両川を結ぶ交通の要地として,前 19世紀バビロン第1王朝の首都となり,ハンムラビ王時代に最も栄えた。ハンムラビの時代以降は守神マルドゥクの信仰を発展させ,宗教的にも重要な都市となり,後世の王たちはマルドゥク神像の手を握りバビロンで即位式を行なった。その後ヒッタイトの侵入,アッシリアとの戦いで戦禍を被ったが,前7~6世紀の新バビロニア時代にナボポラッサルネブカドネザル2世のもとで王国の首都として繁栄した。前 539年以後アケメネス朝ペルシアの支配下に入り,クセルクセス1世 (在位前 486~465) のとき反乱を起こし破壊された。前4世紀アレクサンドロス3世 (大王) のとき帝国の首都に定められたが,彼の死後しだいに衰微した。 1899~1917年ドイツ・オリエント学会の R.コルデワイが発掘を行なったが,出現した都市遺跡は新バビロニア時代のものであった。2重の城壁で防御された市の中央をユーフラテス川が流れ,川東の旧市と川西の新市とに分かれている。市の中央北端に夏の王宮と城塞,市の正門には行列道路に続くイシュタル門が築かれた。旧市の川沿いに北と南に分かれた王宮があり,南の王宮には広い王座の間や,博物館,屋上庭園 (→バビロンの吊り庭園 ) が建てられた。市の中央部の周壁に囲まれたテメノスに,守神マルドゥクの神殿エサギラと聖塔ジッグラト (旧約聖書のバベルの塔の原型) が建造されたほか,イシュタル神殿など多くの神殿があった。イシュタル門や行列道路の壁面に彫られている彩釉煉瓦の浮彫は有名。

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百科事典マイペディアの解説

バビロン

メソポタミアの古代都市。現,イラク中部,バグダッドの南90kmのユーフラテス川両岸にある。前18世紀のハンムラピ時代からヘレニズム時代に至るまでオリエント文明の中心。守護神マルドゥクのジッグラトは〈バベルの塔〉として有名。現在の遺跡は四つの遺跡丘からなり,発掘された遺構はほとんどがネブカドネザル2世の造営にかかる。後世,キリスト教徒によって退廃の代名詞とされた。
→関連項目コルデワイ新バビロニアレヤード

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世界大百科事典 第2版の解説

バビロン【Babylon】

イラク中部,バグダードの南90kmのユーフラテス川両岸にまたがるメソポタミアの古代都市。古代名は〈神の門〉を意味するアッカド語のバビリムBab.ilimに由来し,聖書ではバベルBabelと記されている。守護神はマルドゥク。前3千年紀末に記録に現れるが,重要な役割を果たしたのは,アムル人(アモリ人)のバビロン第1王朝が成立し,第6代目の王ハンムラピ(在位,前1792‐前1750)が即位してからである。

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大辞林 第三版の解説

バビロン【Babylon】

ユーフラテス川の東岸にあったバビロニア地方の古代都市。バビロン第一王朝の首都。新バビロニア時代には世界的都市となる。遺跡はイラクのバグダッドの南ヒラの近くにある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

バビロン
ばびろん
Babylon

古代バビロニアおよび新バビロニア(カルデア朝)の首都として繁栄した古代都市。その遺跡はイラク共和国の首都バグダード南方約110キロメートルのユーフラテス川河畔にある。バビロンの名は、シュメール語カ・ディンギル「神の門」を、バビロニア語に訳したバーブ・イル(ここからヘブライ語バベルが出た)、あるいはイル「神」を複数にしたバーブ・イラーニのギリシア語形で、もとここはメソポタミアの古い神域であった。バビロンについての記録はアッカド朝シャルカリシャッリ王(前2300ころ)にさかのぼるが、もっとも繁栄したのはバビロン第1王朝、とりわけ英主ハムラビ王(在位前1792~前1750または前1728~前1686)の時代であった。バビロン第9王朝を継ぐ新バビロニア(カルデア王朝、前625~前539)の第2代ネブカドネザル2世(在位前605~前562)のもとでバビロンは新たに補修・造営されたが、前539年にアケメネス朝ペルシアの攻撃を受けてこの王朝は倒れ、ついでこの地に入ったマケドニアのアレクサンドロス大王がここで没してから、セレウコス朝(シリア王国)のもとで近くにセレウキアが建設されたためにバビロンは衰退した。
 バビロンについては『旧・新約聖書』、古典古代の著述家(とくにヘロドトス)が種々の伝承・記述を伝えている。『旧約聖書』では、いわゆるバベルの塔(ジッグラト)、バビロニアによるユダ王国の征服、バビロン捕囚(前597、前586)とバビロンからの帰還、バビロンの陥落などが記されており、とりわけバビロン(新バビロニア)の横暴を憤り、その滅亡を予言する「エレミヤ書」、捕囚の苦しみを歌う「詩篇(しへん)」第137篇などはよく知られている。
 近代になって、ハムラビ法典やバビロンの新年祭(アキトゥー祭)文書、多くの年代記などの楔形(くさびがた)文字文書から、バビロンをめぐる歴史、宗教、社会などがかなり明らかになった。また1899~1917年にはR・コルデウァイの指揮下にドイツ調査団がこの地を発掘し、主としてネブカドネザル2世治下のバビロン(ユーフラテスを挟む城壁、中央のジッグラト、イシュタル門と通り、いわゆる空中庭園の跡など)が確認された。[矢島文夫]
『パロ著、波木居斉二訳『ニネヴェとバビロン――続・聖書の考古学』(1959・みすず書房) ▽J・G・マッキーン著、岩永博訳『バビロン』(1976・法政大学出版局)』

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世界大百科事典内のバビロンの言及

【カイロ】より


【歴史】

[フスタートの建設]
 現在のカイロ付近には,古代には,南西のナイル川左岸の山寄りにメンフィスの町があり,北東にはヘリオポリスHeliopolisの町があった。その後メソポタミアからの移民によって,南部の東の山がナイル川に迫った要地にバビロンBabylōnの町ができ,やがてそこにローマ人が砦を築き,ビザンティン時代も支配の拠点となった。641年,エジプトに侵入したアラブ軍の将軍アムル・ブン・アルアースはビザンティン軍を破ってこの地を奪い,642年にエジプト総督のための軍営都市(ミスル)フスタートをここに設定した。…

【バビロニア】より

…しばしば北部のアッシリアと対比され,またバビロニア南部はシュメール,北部はアッカドと呼ばれる。その歴史は,厳密にはバビロンによるメソポタミア南部の統一をもって始まるとみるべきであろうが,以下の記述では,サルゴンによるアッカド帝国の建設によりメソポタミア南部が初めて政治的に統合された時をもってその出発点とし,アレクサンドロス大王による征服までを扱う。なお,以下に掲げるアケメネス朝以前の諸王の治世年代はすべてA.レオ・オッペンハイム《古代メソポタミア》(改訂版,1977)に付されているJ.A.ブリンクマンの年代表に従う。…

【バビロニア美術】より

…メソポタミア南部(バビロニア)においてセム族が営んだ美術の総称で,時代的にはほぼ前20世紀初めに始まり,前6世紀を下限とする。ウル第3王朝の滅亡後,イシン・ラルサ時代,バビロン第1王朝時代を一般に〈古バビロニア時代〉(前20世紀初め~前16世紀初め)と称し,美術史的にも〈古バビロニア美術〉の呼称をこの時期に用いる。その後のいわゆる〈中期バビロニア時代〉に,この地はカッシートの支配を受け,次いでいくつかの王朝が興亡を繰り返したが,政治的混乱のあおりを受けて,美術的にはカッシート人による美術の遺品のほかはほとんど作品が伝えられていない。…

【マルドゥク】より

…バビロンの主神。その名については〈太陽神ウトゥの子牛〉〈マルトゥ人の主〉などさまざまに解釈されて定説がなく,同神の由来も不明。…

※「バビロン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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