インド・ヨーロッパ語族の一つであるバルト語派に属する言語を母語とする民族。現代ではラトビア人とリトアニア人の両民族がこれに属する。
この両民族は長い間文字をもたず、言語の記録は16世紀以降に初めて現れる。スラブ語派とバルト語派はインド・ヨーロッパ語族内部ではもっとも近い関係にあるが、両者の間に共通祖語時代を設定しうるかどうかについてはまだ定説をみない。しかし言語のみならず神話や民間伝承、習俗、物質文化において両語派は著しい共通点をもつ。歴史的にみるなら両語派のもっとも密接な接触は、おそらく紀元前1500年から前500年ころまでに起こった。ヘロドトスが『歴史』に記述しているネウリはバルト人とも考えられている。ロシアの原初年代記は、紀元後10世紀前後にバルト海沿岸地域に住んでいたバルト系諸民族の名を列挙している。それらのうちズィメゴラ、レトガラ、クルシ、セラは独立の言語をもっていたが、16世紀ころにラトビア人に吸収され、ジュムジ、リトワは後のリトアニア人となった。ちなみに、かつて西バルト語に属する古プロイセン語を母語とするプロイセン人(あるいは古プロイセン人)が東プロイセンに居住していたが、18世紀にドイツ騎士団に滅ぼされた。
バルト人の居住地はバルト海沿岸域で、その大部分がリトアニア共和国とラトビア共和国に居住する。しかし水名(川や湖の名)などの研究から、紀元前には現在のウクライナにまでその居住域が広がっていたことが推定されている。
同じ語派に属しながらラトビア人とリトアニア人とは文化的には大きな違いをみせている。これは両民族がたどった歴史の違いによるものである。ラトビアはドイツ騎士団とスカンジナビア諸国による支配が長く、ゲルマン系プロテスタント文化の影響を強く受けたのに対して、リトアニアは長くポーランドのスラブ系カトリック文化の影響を受けたためである。またラトビア人がバルト・フィン系民族からも文化的影響を受けているのに対し、リトアニア人はベラルーシ(白ロシア)人の文化的影響をも受けている。ヨーロッパでの人口は約437万4000(1995)。第二次世界大戦中かなりの人口がカナダ、アメリカなどに移住した。
[伊東一郎]
伝統的な生業は農耕と漁業で、農耕はブタ、ウシの飼養と組み合わされ、おもな作物はライムギ、コムギ、豆類、アサなどだった。バルト人は養蜂(ようほう)にも古くから携わっていた。社会構造はバルト人にあっては東ラトビア以外では厳しい家父長制がとられ、長子相続が行われていた。一般的に家族の基本形態は核家族である。宗教はポーランドとの関係が深かったリトアニアでカトリック、ラトビアでルター派が優勢だが、ラトガリア人(レトガラ)とよばれるカトリック系のラトビア人が少数存在する。バルト人のフォークロアの代表的なものは叙情詩であり、ダイナとよばれた。ラトビアでは19世紀末に詩人A・プムプルスが集大成し、『ラーチプレーシス(熊を裂き殺す者)』として出版した。民話の伴奏には撥弦(はつげん)楽器カンクレス(コクレ)が用いられた。神話の核は太陽崇拝を中心とする天体神話である。
[伊東一郎]
『百瀬宏・志摩園子・大島美穂著『環バルト海』(岩波新書)』
スイスのプロテスタントの神学者で、弁証法神学の運動の中心となった。5月10日、バーゼルで古代教会史教授フリッツFritz Barth(1856―1912)の長男として生まれる。父の転任によりベルンに移り、ギムナジウムを経て、ベルン大学神学部に入学、基礎学科を修めた。のちドイツのベルリン、チュービンゲン、マールブルクの大学に学び、ベルリンではハルナックについて、そのゼミナールで優れた学生と評価された。1909年ジュネーブのドイツ語教会副牧師となり、かたわらドイツの自由主義神学の機関誌『キリスト教世界』の編集にも携わった。1911年からアールガウ州の小工業村ザーフェンビルの牧師となって、村民の生活を守る戦いのなかで、宗教社会主義運動に触れ、やがて1915年社会民主党に入党した。この活動のなかでなされた教会の礼拝説教から新しい聖書解釈が生まれ、それが『ローマ書』(1919)として出版された。本書とその改訂2版(1922)は、第一次世界大戦後に彼と同様の閉塞(へいそく)状況にあったスイスやドイツなどの若い牧師・神学者に大きな反響を呼び起こし、「弁証法神学」とよばれる神学運動の発火点となった。それによってプロテスタント神学は近代主義の枠を突破し、現代的展望にたつことができた。彼は、1921年にゲッティンゲン大学の寄付講座教授になり、ミュンスターからボンの各大学に転任し、その間に、その神学の基礎構造をつくりあげた。アンセルムス研究によって神学方法論を確立したのち、1932年以来『教会教義学』4巻13冊を書き続けた。ヒトラーの台頭に際して、反ナチ教会闘争の中心となり、1934年バルメン宣言の起草に加わり、翌1935年、ヒトラーへの忠誠宣言を拒否したことなどからボン大学教授を罷免され、故郷のバーゼル大学教授に就任、スイスから運動を指導した。1948年第二次世界大戦後のハンガリーを旅行、社会主義下のキリスト教を認め、それを支持した。1950年代には、R・ブルトマンとの間で「非神話化」の問題をめぐって論争した。バーゼル大学を引退後、1962年にはアメリカ合衆国を訪問、1966年にバチカンを訪問して、神学上の意見を交換した。1968年12月10日バーゼルにて没。主著の『教会教義学』は1万ページを数えたが、4巻末尾と5巻は未完に終わった。
[小川圭治 2018年1月19日]
『井上良雄・吉永正義訳『教会教義学』36冊(1959~1996/オンデマンド版・2005~ ・新教出版社)』▽『佐藤敏夫訳『バルト自伝』(1961・新教出版社)』▽『井上良雄他訳『カール・バルト著作集』全18巻(1967~2007、18巻未完・新教出版社)』▽『小川圭治・岩波哲男訳『世界の大思想 ローマ書講解』(1968・河出書房新社)』▽『小川圭治著『主体と超越――キルケゴールからバルトへ』(1975・創文社)』▽『宮田光雄著『政治と宗教倫理――現代プロテスタンティズム研究』(1975・岩波書店)』▽『大木英夫著『人類の知的遺産72 バルト』(1984・講談社)』
フランスの批評家、記号学者。11月12日シェルブール生まれ。1962年、高等学術研究院研究指導教授。1976年コレージュ・ド・フランス教授。レビ・ストロース(文化人類学)、ラカン(精神分析)、フーコー(哲学)らと並び称される、いわゆる構造主義(文学)の代表者。
マルクス主義とサルトルの影響のもとに文学形式の社会的責任を説く『零度のエクリチュール』Le degré zéro de l'écriture(1953)以来、ほとんどつねに批評の最先端を歩み、記号論的関心に貫かれた多彩な批評活動を展開。ブレヒト劇を熱烈に支持し、戦闘的な劇評を書き、ヌーボー・ロマンを擁護し(『エッセ・クリティック』1964)、ブルジョア社会の神話に痛烈な批判を加えた(『神話作用』1957)。テーマ批評(『ミシュレ』1954、『ラシーヌ論』1963)、記号学(『記号学の原理』1964、『モードの体系』1967)を手がけ、新旧批評論争を行い(『批評と真実』1966)、物語の構造分析を推し進め、古典的テクストを読み直し(『新=批評的エッセー』1972)、テクスト理論を実践する(『S/Z』1970、『サド、フーリエ、ロヨラ』1971、『テクストの快楽』1973)。
1966年、来日。斬新(ざんしん)な日本文化論『表徴の帝国』(1970)を発表。晩年には、『文学の記号学』(1978)で述べているように、記号学的批評と創作の一体化を企て、一種の自叙伝『彼自身によるロラン・バルト』(1975)、一種の恋愛小説『恋愛のディスクール・断章』(1977)、一種のプルースト的小説『明るい部屋』(1980)を書いている。ほかに、映像論、音楽論を含む『自明の意味と鈍い意味』L'obvie et l'obtus(1982)、『言語のざわめき』Le bruissement de la langue(1984)、『記号学の冒険』L'aventure sémiologique(1985)などがある。
[花輪 光 2018年7月20日]
『宗左近訳『表徴の帝国』(1974・新潮社/ちくま学芸文庫)』▽『佐藤信夫訳『彼自身によるロラン・バルト』(1979/新装版・1997・みすず書房)』▽『花輪光訳『言語のざわめき』(1987/新装版・2000・みすず書房)』▽『花輪光著『ロラン・バルト――その言語圏とイメージ圏』(1985・みすず書房)』
ドイツの哲学者、社会学者、教育学者。ライプツィヒ大学の哲学、教育学教授。哲学的には個別諸科学の成果を超えた、全存在者の統一的認識を志し、哲学、社会学、教育学の限界領域で学際的研究を行った。社会学的には、ヘーゲルの歴史哲学とランケの史学の間隙(かんげき)を埋めようとして、歴史を普遍的に考察する歴史哲学を社会学と同一視する「社会学としての歴史哲学」を構想した。そこで、コント、スペンサー、フーリエ、ウォード、ギディングス、マルクス、エンゲルスなどに批判的検討を加え、精神的有機体としての社会の精神的成長に期待を寄せた。教育学的にはヘルバルト派に属し、「知情意」3部門の成長という倫理学的目的をたて、それを心理学的方法によって基礎づけようとした。さらに全体としては、社会学を歴史哲学と規定しつつ、社会の継続性の要因を教育による統一意志の扶植とみて、社会学的精神史としての教育史に高い地位を与え、道徳教育にその実践的帰結をみいだした。著書に『社会学としての歴史哲学』Die Philosophie der Geschichte als Soziologie(1897)、『社会学的・思想史的視点からの教育史』Die Geschichte der Erziehung in soziologischer und geistesgeschichtlicher Beleuchtung(1911)などがある。
[徳永 恂]
スイスのプロテスタント神学者。神学者フリッツ・バルトFritz Barthの子として,バーゼルに生まれた。少年時代をベルンで過ごした後,ベルリン,チュービンゲン,マールブルク等の大学神学部で学ぶ。マールブルクでW.ヘルマンの影響を受ける。1909年からジュネーブの教会の副牧師。11年ザーフェンウィル村の教会の牧師。隣村ロイトウィルの教会にトゥルナイゼンがおり,2人は生涯にわたる親交を結ぶ。当時は〈宗教社会主義〉の全盛期であり,2人はその指導者クッターH.Kutterの影響を強く受ける。バルトは村の工場の労働組合の闘争に積極的に関与し,15年には社会民主党に入党する。しかし第1次世界大戦を機として示された近代神学全体の無力さに対する失望とブルムハルト父子の影響下に,彼は聖書の世界にいっそう深く沈潜し,そこに現代に対しても語りかける生きた神の言葉を発見する。彼はしだいに〈宗教社会主義〉の運動から離れ,パウロの《ローマ人への手紙》の講解を19年に発表する。それはさらに根本的に書き改められて,22年に再版されるが,これが大戦後の神学界に強烈な影響を与え,やがて〈弁証法神学〉という名で呼ばれる新しい神学運動の出発点となる。
21年にバルトはゲッティンゲン大学に招かれて,神学教師としての道を歩きはじめるが,22年にトゥルナイゼン,メルツG.Merzと共同編集で雑誌《時の間》を発行。バルトはこれに次々と有力な論文を発表して,その思想を展開していった。しかし31年のアンセルムス論《知解を求める信仰》によって,新しい神学的方法論を確立し,その上に立ってその終生の大著《教会教義学》の執筆にとりかかった。33年ヒトラーのドイツ帝国宰相就任を機として徐々に始まった教会に対するナチス政権の干渉のなかで,バルトはいち早くその危険な兆候を感じ,スイス国籍のまま〈告白教会〉を中心とする〈ドイツ教会闘争〉に参加し,その理論的指導者となる。33年6月に小冊子《今日の神学的実存》を発表。これは教会闘争の起床ラッパの役を果たしたといわれる。34年5月にバルメンで開かれた第1回告白会議では,いわゆる〈バルメン宣言〉を起草。ナチスに反対する〈告白教会〉の基本的姿勢を明確に示した。しかしヒトラーに対する忠誠宣言拒否問題を直接の原因として,35年6月にボン大学教授を罷免され,故国スイスのバーゼル大学に移った。その後は《教会教義学》の完成に主力を注ぎ,和解論の中途まで書きつづけたが,トマス・アクイナスの《神学大全》に比較される約1万ページに及ぶこの大著は,未完成のままに終わった。
彼はルター,カルバン以来最大のプロテスタント神学者といわれ,その影響力は世界の教会に及んでいる。日本の教会はとくに昭和初年から彼の神学の影響を強く受け,その著作の邦訳は英訳に次いで世界で最も多いといわれている。
→弁証法神学
執筆者:井上 良雄
ドイツの地誌家,探検家。ハンブルクで商人を父として生まれ,ベルリン大学でA.vonフンボルト,K.リッターらについて地理学を学んだ。若いころから旅を好み,1年間のイタリア旅行の後,1845-47年,地中海周縁諸地方を旅し,北アフリカの土を踏んだ。50-55年,イギリス政府が企画した中部サハラおよび中部アフリカ探検に3人の探検家の一人として加わり,同行の2人の死後も単独で探検を完了した。この探検で彼はトリポリからサハラを越えてチャド湖に到達し,バギルミ王国,ハウサ諸国に滞在,53-54年にはニジェール川を北西にさかのぼって,トンブクトゥ,ガオなどを訪れた。その後再びチャド湖地方に戻ってカネム・ボルヌー帝国を経てサハラを北上し,トリポリに帰着した。多くの貴重な観察を含むこの旅の記録は,《北部および中部アフリカの旅と発見》3巻(1857)として刊行され,彼が接したアフリカ諸民族の言語についての比較記述も後に出版された。帰国後も,スペイン,バルカン半島,トルコなどへの旅を行い,旅行記を残した。
執筆者:川田 順造
フランスの思想家,文学者。南西部の都市バイヨンヌの生れ。コレージュ・ド・フランス教授。制度としての〈言語=文化=社会〉のなかでひそかに人々に働きかけているさまざまの〈擬自然〉の暗黙の意味作用を分析しつづけた。ある種のことばづかいの型すなわちエクリチュール(文章態)が発揮する隠れた作用の解明から出発し,やがて広く文学・社会の諸現象にひそむ記号(意味)作用を分析する構造主義的記号学の開拓者のひとりとなる。しかし,のちには体系的な記号学に疑念を抱くにいたり,文学としての記号学とでもいうべき方向へ転じた。それは,ドクサ(通念)への批判がたちまちドクサになってしまう微妙な言語的思考というものに対する彼独自の反応であり,その繊細な知的姿勢は現代思想に深い影響を与えつづけている。著書《零度のエクリチュール》《モードの体系》《文学の記号学》《恋愛のディスクール・断章》など。
執筆者:佐藤 信夫
ドイツの哲学者,社会学者,教育学者。ギムナジウムの教師を経て,1890年以降はライプチヒ大学の教授。その代表作《社会学としての歴史哲学》(1897)において,社会学と歴史哲学を同一視し,社会学は歴史の一般化的考察を行い,一般概念および一般法則を設定するものと規定している。また一方で,H.スペンサー,W.ブントらの影響を受けて,社会を精神的・意志的な有機体ととらえる〈社会有機体説〉に立脚し,その立場から教育の機能を社会における精神的伝播・繁殖にあるとした。したがって教育者は教育史を知る必要があり,教育史は社会学的・精神史的に構成されなければならないと説いた。
執筆者:平野 正久
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1886~1968
プロテスタント神学者。スイスの生まれ。テュービンゲン大学で学び,ゲッティンゲン大学などの教授となる。反ナチ闘争に参加。歴史主義的神学を批判し,聖書を神の言葉そのものととらえることを主張。主著『教会教義学』は現代神学に大きな影響を与えた。
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…また改革派内部でも教会と国家をめぐる新しい問題が生じた。K.バルトは改革派に属するが,キリスト論を神学の一部ではなく全部に及ぶものとした。そこで受肉を三位一体といっしょに啓示論の中におき,預定説ではキリストを選びの客体であるとともに主体でもあるとして,その外部に隠れたものを認めない。…
…神学的な贖罪論は,その具体性と普遍性(終末性)を同時に生かす課題をもっている。この点で,K.バルトが〈和解Versöhnung〉と〈救贖Erlösung〉とを区別し,その間に歴史的実存としての教会を位置づけたことはすぐれた理解であるといえる。罪【泉 治典】 キリスト教におけるがごとき原罪という観念のなかった中国や日本では,贖罪という言葉は金品を出して刑罰を免れることを意味した。…
…聖書神学とともに,教会史,教義史を研究する歴史神学がプロテスタント神学の中で興隆した。しかし第1次世界大戦を契機としてあらわになった近代の危機的状況から,K.バルトを中心に従前の神学に対する激しい否の声がおこった。この弁証法神学はキルケゴールの実存主義の影響を受けているが,宗教改革の精神を新たに生かそうとするプロテスタント神学の努力である。…
…1924‐53年チューリヒ大学の組織神学および実践神学の教授,同大学総長もつとめた(1942‐44)。クッターH.Kutter,ラガーツL.Ragazらの宗教社会主義の影響下に思想形成を始め,やがてシュライエルマハー以来の人間中心,体験重視の近代神学を批判して,K.バルトらとともに神中心の啓示神学を唱導した。のちバルトと決別したが(自然神学論争),その争点は人間に啓示と結びつく能力〈結合点Anknüpfungspunkt〉があるか否かの理解の差異にあった。…
…〈危機神学Theologie der Krisis〉とも呼ばれる。この運動の中心人物であったK.バルトは,ブルムハルト父子の影響をうけたクッターH.Kutter(1863‐1931)とラガーツL.Ragaz(1868‐1945)とともに宗教社会主義運動に加わっていたが,《ローマ人への手紙》(第2版,1922)においてキルケゴールのいう〈神と人間との絶対の質的差異〉をモットーとし,ドストエフスキーやニーチェからも時代の本質的な危機を学んで,19世紀の文化的キリスト教を激しく非難し,キリスト教の終末論的本質と教会の罪とを明らかにした。また当時発見されたルターの《ローマ人への手紙講義》に学び,信仰の矛盾にみちた逆説性と神の言葉の破壊と建設の力を強調したことからして,〈弁証法神学〉の名がこれに帰せられた。…
…カルバンはある者は救いに,ある者は滅びに預定されているとの〈二重預定〉を説いたが,これは神の全知と摂理を語るスコラ神学が自然神学に堕するのを防ぐものであった。しかしK.バルトは,預定の神をたんに隠れた恐るべき神とするこの考えを批判し,キリスト自身選ぶ神であり,選びの原理はその死と復活のうちに現れていると述べる。救い摂理【泉 治典】。…
※「バルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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