パリ大学(読み)パリだいがく

精選版 日本国語大辞典 「パリ大学」の意味・読み・例文・類語

パリ‐だいがく【パリ大学】

(Université de Paris) パリにある国立の総合大学。一一五〇年ごろの創立。ノートルダム寺院を中心に設立された教師と学生の組合を起源として発展。一八九六年いくつかの単科大学を統合してパリ大学となる。本部と文学部・理学部はソルボンヌ大学の通称で知られた。一九六八年一三の独立した大学に再編された。

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デジタル大辞泉 「パリ大学」の意味・読み・例文・類語

パリ‐だいがく【パリ大学】

Université de Paris》パリ市にあるフランス最古の国立大学。1150年、ノートルダム大聖堂付属神学校を母体として設立。1896年に各単科大学を合併してパリ大学となるが、1968年に解体され、13の独立した大学に再編された。特に、第1・第3・第4大学をソルボンヌ大学とも称する。

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大学事典 「パリ大学」の解説

パリ大学[フランス]
パリだいがく

[成立期および中世]

パリ大学は,ボローニャ大学(イタリア)オックスフォード大学(イギリス)モンペリエ大学(フランス)などと並んで,最も古い歴史を有する大学の一つである。12世紀末頃から教師および学生の共同体が現れ,1200年に国王フィリップ・オーギュスト,15年に教皇インノケンティウス3世からの認可を受け,さらに31年にグレゴリウス9世による教皇大勅書『諸学の父』により,パリ大学の自由と特権が承認されることとなった。またパリ大学は早くより,神学,法学,医学,文芸(リベラルアーツ)の各学部を備えていた。パリ大学の名声は1250年頃にはすでにヨーロッパに広まっていた。貧しい学生のためにロベール・ド・ソルボンによって1253年に創設された学寮が,1257年には国王によって認可され,ここからソルボンヌというパリ大学の呼称が生まれている。また,たとえばローマとアヴィニオンに教皇が並び立った1378年から1417年の西欧の教会大分裂の収拾に際しては,神学者であったパリ大学総長ジェルソンが重要な役割を果たすなど,ヨーロッパにおけるパリ大学の存在は大きかった。

 なお1530年には,神学中心であった当時の大学に対して,人文主義を中心により開かれた学問を行う場として,フランソワ1世により今日のコレージュ・ド・フランスが創設されているが,このこと自体,ソルボンヌへの対抗機関を国王が求めていたととらえることもできる。

フランス革命およびナポレオンの帝国大学]

学問的にも,政治的あるいは社会的にも大きな影響力を有していたパリ大学であったが,フランス革命においては他の大学と同様に,その大きな波を蒙ることとなった。アンシャン・レジーム下の特権的な同業組合を廃止するという革命期の動きの中で,1793年にパリ大学は廃止されたのである。その後,ナポレオン帝政期の19世紀はじめに「帝国大学(フランス)(ユニヴェルシテ・アンペリアル(フランス))」が創設されるが,これは通常考えられるような高等教育機関ではなく,実際には初等,中等教育を含む各種の学校をその監督下におく教育行政機関であった。教育,研究の場としての「大学」に相当するべきものは単科大学(faculté: ファキュルテ(フランス))であったが,法科,医科のファキュルテはグランド・ゼコールと同様に職業教育に結びついた専門学校としての性格が強く,また文科,理科のファキュルテは学位授与のための単なる試験機関というのがおもな任務であった。こうした状態は,19世紀を通じてパリを含むフランスの大学の停滞をもたらすこととなった。

[19世紀末の大学改革]

普仏戦争の敗北が「フランスの科学の敗北」ととらえられた第三共和政下において,ナポレオン期からの大学のあり方に対する改革が進められた。当時のドイツの大学の隆盛を踏まえつつ,グランド・ゼコールとの対比の中で,大学は単なる職業教育ではない,「科学」の行われる場であることが強調された。この文脈で新たな諸学問が大学に導入され,「研究所」等も新たに創設された。また科学の普遍性,総合性を体現する場として,ファキュルテの分立ではない総合大学(フランス)(université: ユニヴェルシテ(フランス))の設立が目指され,1896年の総合大学設置法に結実する。ただしこれは各大学区の既存のファキュルテの連合体にユニヴェルシテの名を与えたにとどまるともされる。文科,法科,理科,医科の4種のファキュルテをすべて備えていたのはパリ,リヨン,ナンシーのみであったが,パリ大学においても各ファキュルテの「自治」は大きくは変わらなかった。

[1968年五月革命とその後]

パリ大学ナンテール分校での大学寮の問題に端を発した学生運動は,その後労働者をも巻き込む形で拡大し「五月革命」に至った。五月革命の主たる攻防の場は,ソルボンヌのあるカルティエ・ラタンであった。五月革命は,「68年世代」という言葉が用いられるように時代の転換を象徴するものであるが,その背景には,第2次世界大戦後に生まれたベビーブーム世代が大学に進学する年齢となり,学生数の増加や大学教育の社会的な意味の変容などが生じてきたことがある。

 五月革命の,大学に対する直接的な影響としては,1968年11月12日の高等教育基本法(フランス)(エドガール・フォール法(フランス))の制定が挙げられる。この法律で,大学区に複数の大学を創設することが可能であると述べられ,1970年12月23日の政令によって,パリ大学はパリ第1大学からパリ第13大学の13の大学に分かれることとなった。また,それまでのファキュルテが解体され,おおよそ「学科」のレベルに相当する「教育研究単位(フランス)(UFR)」によって大学が構成されることとなり,インターディシプリナリーな学問を推奨するという方向性も示された。さらに「参加」の観点から教員,学生,職員,学外識者による評議会が設けられることとなった。

[今日のパリ大学]

近年のフランスの高等教育の改革の動きとして,2007年8月10日に成立した「大学の自由と責任に関する法律(LRU)」を展開する形で,2013年7月22日には「高等教育・研究法」が新たに成立している。LRUに先立つ2006年4月18日の「研究計画法」によって設立された「研究・高等教育拠点(PRES)」が,この「高等教育・研究法」によって廃止され,「大学・高等教育機関共同体(フランス)(COMUE)」に置き換えられたが,PRESおよびその後継のCOMUEは,大学,グランド・ゼコールをはじめとする各種高等教育機関,諸研究機関を集める形で組織されている。COMUEの導入によって13に分かれていたパリの大学は,Université Paris-Est(含パリ第12大学),Université Paris lumières(含パリ第8,第10大学),Université Paris-Saclay(含パリ第11大学),Paris sciences et lettres(含パリ・ドフィーヌ=旧パリ第9大学),Université Sorbonne Paris Cité(含パリ第3,第5,第7,第13大学),Sorbonne Université(含パリ第2,第4,第6大学)の六つのCOMUEに再構成されつつある。なお,パリを中心とするイル・ド・フランス圏には,ほかにHeSam UniversitéおよびUniversité Paris-Seineの二つのCOMUEがある。

 近年は地方分権の政策が進められているものの,中央集権的な性格の強いフランスにおいて,首都に位置するパリ大学は,フランスの大学界において大きな存在であり続けている。
著者: 白鳥義彦

参考文献: クリストフ・シャルル,ジャック・ヴェルジェ著,岡山茂,谷口清彦訳『大学の歴史』白水社,2009.

参考文献: 田原音和『歴史のなかの社会学―デュルケームとデュルケミアン』木鐸社,1983.

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パリ大学」の意味・わかりやすい解説

パリ大学
ぱりだいがく
Université de Paris

13世紀に創立されたフランス最古の大学。「ソルボンヌ」の通称で知られる。ボローニャ大学(イタリア)やオックスフォード、ケンブリッジ両大学(イギリス)などと並ぶヨーロッパ屈指の名門大学として発展したが、20世紀なかばには単一の大学で学生数20万人を擁するまでにマンモス化したため、1968年に解体され、パリ第一~第十三大学までの13の新制大学に再編され、現在に至っている。

[井上星児]

歴史

パリ公教会の付属学校などを母体として、1215年に正式に創立。当初、ともに聖職者身分である教授と学生との研究・教育を目的とする同業組合(ギルド)であったが、13世紀中の前後数回に及ぶ自治権獲得闘争の結果、ローマ教皇と国王から自治権をかちえた。以後、中世全体を通じて、学士課程(自由学部)では3学(文法・修辞学・論理学)と4科(数学・幾何学・天文学・音楽)を教え、学士号取得者にはさらに修士号・博士号への道を開く専門課程(神学部・法学部・医学部)に進ませるなどの制度で、ヨーロッパ全域から学びにくる英才の指導・育成にあたった。なかでも神学部は有名で、その中心的存在であったソルボンヌ学舎(13世紀に僧侶(そうりょ)ソルボンRobert de Sorbon(1201―74)が建設した学寮兼研究棟)は、のちにはパリ大学全体の代名詞ともなった。しかし、ルネサンス期以後は、近代科学の進展についていく能力を失って停滞し、フランス革命後の1790年代には、パリ大学は国権の及ばない学者・学生の硬直化したギルド団体として革命議会に糾弾され、大学(当時の表記はファキュルテfaculté。「分科大学」の意)の名称が禁止された。

 しかし、ナポレオン1世の「帝国学制」の確立に伴い、ふたたび「ファキュルテ」の名称が復活された。しかも、「国にかわって」学位を授与する権利が認められ、同時に教会との結び付きが消滅した(1806)。第三共和制期には、文部大臣ジュール・フェリーによる改革が行われ、1893年と1896年の二つの法律により、一つの大学区に所在するいくつかのファキュルテの集合体に「ユニベルシテ」universitéという名称が与えられることになり、ここに、法人格と財政上の自治権を有する「パリ大学」が成立。同時に、地方にも1大学区に1大学(ユニベルシテ)という大学網が確立され、20世紀に入って発展する。

 しかし、1966年11月の「第2回カーン会議」(高等教育と学術研究の改革のための最高の専門家会議)では、当時すでに全国の大学生の30%にあたる20万人の学生を抱えていたパリ大学の深刻な状況が報告され、その改革を中心に、全国23の各大学の学生数を適正規模(最大2万人)に抑え、パリ地域圏には15前後の大学を設置する案など、各種の改革案が検討されるに至った。その後1968~1969年の、世界を揺るがしたパリ大学の寮自治紛争を火種とする学生の反乱(五月革命)をきっかけに、伝統的な大学の管理・運営のあり方が根本から問い直され、「参加」を基本理念とする文相エドガール・フォールによる画期的な「高等教育基本法」が1969年制定・施行された(フォール改革)。この改革の結果、1970年代の初めまでに、パリ大学をはじめとする全国23の大学は解体・再編され、最終的には70余の新制大学が、旧来の学部(ファキュルテ)にかわる新しい「教育・研究単位機関」(UER=Unités d'Enseignement et de Recherche)を基盤として発足した。

[井上星児]

現況

1960年代末の改革で旧パリ大学は解体され、市内の「パリ大学区」にパリ第一~第九大学が、市外の「ベルサイユ大学区」にパリ第十、第十一大学が、また同じく市外の「クレテイユ大学区」にパリ第十二、第十三大学が設置され、国民に開かれた新制国立総合大学として再出発した。

 13の大学の規模や設置する課程はさまざまであるが、それらのなかで大きな特色をもつ大学の一つに、パリ第八大学(通称「バンセンヌ大学」)がある。同大学の(1)科目履修の大幅な自由化、(2)現代外国語と情報科学の必修化、(3)バカロレアbaccalauréat試験(後述)を免除した入学者の受け入れ、(4)夜間クラス・週末クラス・夏季クラスの開設による社会人に対する「生涯学習」支援、(5)学年ごとの取得単位数を定めず、優秀者には通常より短期間で学士号などを授与する弾力的措置、(6)産業界など外部からの講師の積極的招聘(しょうへい)など、一連の「実験的」なシステムは、全国の大学の管理運営制度に大きな影響を与えることとなった。

 また、これら13大学の入学者の決定については、一般の国立大学の場合と同様、基本的にはバカロレア試験(高校修了認定と大学入学資格付与を兼ねる統一的国家試験)の合格が必要十分条件であるが、一般にパリ地域圏の諸大学へ志願者が集中しがちであるため、1970年代後半から13大学の多くが、バカロレア資格を取得した志願者に対してさらに独自の入学者選抜を行うようになった。2000年現在、全13大学の在籍者数は、約35万人である。

[井上星児]

『小林良彰著『欧米大学レポート――ハーバード大学とパリ大学』(1983・三一書房)』『藤沢たかし著『63歳からのパリ大学留学』(1984・新潮社)』『浜野トキ著『定年からのフランス留学』(1991・日本放送出版協会)』『遠藤周作著『フランスの大学生』(1977・角川書店)』『岩城和哉著『知の空間――カルチェラタン・クォードラングル・キャンパス 建築巡礼(シリーズ37)』(1998・丸善)』『岡本太郎著『リリカルな自画像』(2001・みすず書房)』


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改訂新版 世界大百科事典 「パリ大学」の意味・わかりやすい解説

パリ大学 (パリだいがく)
Université de Paris

フランスの総合大学の一つで,パリおよびクレテイユ,ベルサイユの3大学区にある13大学の総称。他の大学区と同じように,教育課程は3段階に分かれ,第1課程(2年)と第2課程(2年,医学系では4年)の前半が,日本の教養・専門課程に該当し,第2課程の後半と第3課程(3年)が大学院に該当する。1996年現在の在籍者数は,全13大学で約30万人。国立行政学院(ENA),エコール・ポリテクニク(理工科大学),高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)などは〈グランドゼコール〉とよばれ,大学とは別個の組織である。

 ヨーロッパ最古の大学の一つであり,ヨーロッパの大学の原型ともなったパリ大学の起源は,12世紀にまでさかのぼる。国際的な学問の中心地であるパリで私塾を開いていた教師たちが,教育内容を統轄し特権を確保するためギルドを結成し,ローマ教皇やフランス国王の保護をうけて,13世紀前半期に自治団体として成長したものがパリ大学である。神学・教会法・医学の3上級学部と学芸学部があり,構成員は出身地別に,ノルマンディーピカルディー(パリ北方からベルギーまで),フランス(パリを含む上記以外の全フランスとイタリア,スペイン),イギリス(イギリス,オランダとライン以東の全ヨーロッパ)の4国民団に分かれていた。セーヌ左岸に学校や学生の居住区が集中し,学生はラテン語を使用したので,いまでもその地区はラテン区(カルティエ・ラタン)とよばれる。初期には外国人学生も多い国際的な大学で,学問上の権威も高く,自治団体としての活動も活発であったが,百年戦争や王権の中央集権化の過程で,外国人も減少,学問も硬直化し,主要な特権も廃止されて,〈フランス国王の長女〉といわれるように王権に従属した。宗教改革以後,パリ大学はカトリックガリカニスムの牙城としてイエズス会の勢力が強く浸透し,17~18世紀の科学・哲学の革新運動にはパリ大学はほとんど関与していない。中世以来100以上の学寮がつくられたが,神学生のためのソルボンヌ学寮(1257)はとくに有名で,のちには神学部ひいてはパリ大学そのものの代名詞ともなった。

 フランス革命による旧大学の閉鎖後,ナポレオン1世の〈帝国大学令〉(1807)によって,全国は16の大学区に分割され,各大学区に相互に独立した学部が設置されたとき,パリ大学区には,神・法・医・理・文の5学部がおかれた。第三共和政時代に神学部が廃止されて薬学部が設置され,また学部の集合体として〈大学〉という名称も復活(1896)するなど,制度上の改変はみられたものの,総長は文相の任命によるなど,強い国家統制は変わらない。一方,専門家を養成するためには,国立古文書学院(1821)や高等研究院(エコール・プラティーク・デ・オートゼチュード。1868)などが,大学とは別個につくられた。1968年の五月革命を契機に大学改革の機運は高まり,高等教育基本法(1969)によって,現在の大学制度が成立した。学部は廃止されて,応用数学,英米文学などの専門的な研究・教育単位である〈ユニテ〉に再編され,パリ大学区でも,1大学区1大学制から,20前後のユニテからなる13の独立した大学に改組された。同時に,大学評議会が総長を選出するなど,大学自治の原則が大幅に採用された。
ソルボンヌ
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百科事典マイペディア 「パリ大学」の意味・わかりやすい解説

パリ大学【パリだいがく】

フランスの国立総合大学。パリ,クレテイユ,ベルサイユの3大学区にある13の大学の総称。1150年ころに,神学研究の機関として創立され,のち大学の組織の面でヨーロッパ州諸大学の模範とされた。ナポレオン治下の新学制で全国が16の〈大学区〉に分割されたとき,パリには五つの相互に独立した学部が置かれ第三共和政下で再び集合体としての〈大学〉の名称が復活。さらに,五月革命後の1970年,学制改革により13の独立大学に改編された。→ソルボンヌ
→関連項目ウィーン大学クラクフ大学コレージュ・ド・フランスサラマンカ大学大学(教育)プラハ大学ボローニャ大学

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パリ大学」の意味・わかりやすい解説

パリ大学
パリだいがく
Universités de Paris I à XIII

大部分パリに所在する 13の単位キャンパスから成るフランスの共学制大学。国庫によって維持されるが高度に自治的である。単位キャンパスはI~XIIIの番号が付けられ,たとえばIには経済学・法学など,VIには数学・物理学など,それぞれ固有の学部もしくは学科を擁する。 1968年の高等教育改革法に基づき 70年に改編された。前身は,1170年頃創立のパリ大学で,これはノートルダム大聖堂付属学校から発展,教員,学生それぞれの自治団体ウニベルシタスを形成,教皇庁の支援でアルプス以北のキリスト教神学の一大中心に成長した。中世の完成期には神学,教会法学,医学の3上級学部と教養学の下級学部とから成り,各学部長はドワイアンと呼ばれ,最初教養学部長であったレクトール (学長) が結果的に全大学を統括するにいたった。 16~17世紀には各学寮 (コレージュ ) の独立性が強まり大学は実質的に学寮の連合体となった。なかでも有名だった学寮はソルボンヌで,1257年頃神学者 R.ソルボンによって設立され,パリ大学神学部の代名詞となった。フランス大革命 (1789~99) とナポレオンの学制改革の結果,パリ大学は,新設のフランス大学の大学区 (アカデミー) の1つとなり,神学部などの廃止,自然科学部の創設などが行われ,特定の政治や宗教の教説から中立の態度をとった。 20世紀なかばには,おもに法学部,医・薬学部,自然科学部,文学部などを有し,600以上の講座があった。フランス全土だけでなく,海外からも多くの留学生がきている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「パリ大学」の解説

パリ大学(パリだいがく)
Université de Paris

12世紀中頃ノートルダム大聖堂付属神学校より昇格し,教皇インノケンティウス3世,フランス王フィリップ2世の保護を受けて「ウニウェルシタス(教授学生組合)」として発展し,神学,哲学を中心に「諸学の親」と呼ばれる学府となった。1250年ソルボンが神学部を確立。トマス・アクィナスをはじめ有名なスコラ哲学の教授が教壇に立った。教会の大分裂時代まで神学の最高権威であった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「パリ大学」の解説

パリ大学
パリだいがく
Université de Paris

フランスの首都パリにある国立総合大学
12世紀ごろ「教師と学生の組合」として生まれ,13世紀には組織も確立して国王の認可を受け,神学を中心に中世を通じてヨーロッパの学問の権威となった。1968年の五月危機を契機として学部制の廃止や大学の分割などの改革が進んだ。パリ大学の母体である神学校はソルボンヌ(Sorbonne)といい,のち,パリ大学の通称として用いられた。現在は13の独立した大学に改組されている。

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