[成立期および中世]
パリ大学は,ボローニャ大学(イタリア),オックスフォード大学(イギリス),モンペリエ大学(フランス)などと並んで,最も古い歴史を有する大学の一つである。12世紀末頃から教師および学生の共同体が現れ,1200年に国王フィリップ・オーギュスト,15年に教皇インノケンティウス3世からの認可を受け,さらに31年にグレゴリウス9世による教皇大勅書『諸学の父』により,パリ大学の自由と特権が承認されることとなった。またパリ大学は早くより,神学,法学,医学,文芸(リベラルアーツ)の各学部を備えていた。パリ大学の名声は1250年頃にはすでにヨーロッパに広まっていた。貧しい学生のためにロベール・ド・ソルボンによって1253年に創設された学寮が,1257年には国王によって認可され,ここからソルボンヌというパリ大学の呼称が生まれている。また,たとえばローマとアヴィニオンに教皇が並び立った1378年から1417年の西欧の教会大分裂の収拾に際しては,神学者であったパリ大学総長ジェルソンが重要な役割を果たすなど,ヨーロッパにおけるパリ大学の存在は大きかった。
なお1530年には,神学中心であった当時の大学に対して,人文主義を中心により開かれた学問を行う場として,フランソワ1世により今日のコレージュ・ド・フランスが創設されているが,このこと自体,ソルボンヌへの対抗機関を国王が求めていたととらえることもできる。
学問的にも,政治的あるいは社会的にも大きな影響力を有していたパリ大学であったが,フランス革命においては他の大学と同様に,その大きな波を蒙ることとなった。アンシャン・レジーム下の特権的な同業組合を廃止するという革命期の動きの中で,1793年にパリ大学は廃止されたのである。その後,ナポレオン帝政期の19世紀はじめに「帝国大学(フランス)(ユニヴェルシテ・アンペリアル(フランス))」が創設されるが,これは通常考えられるような高等教育機関ではなく,実際には初等,中等教育を含む各種の学校をその監督下におく教育行政機関であった。教育,研究の場としての「大学」に相当するべきものは単科大学(faculté: ファキュルテ(フランス))であったが,法科,医科のファキュルテはグランド・ゼコールと同様に職業教育に結びついた専門学校としての性格が強く,また文科,理科のファキュルテは学位授与のための単なる試験機関というのがおもな任務であった。こうした状態は,19世紀を通じてパリを含むフランスの大学の停滞をもたらすこととなった。
[19世紀末の大学改革]
普仏戦争の敗北が「フランスの科学の敗北」ととらえられた第三共和政下において,ナポレオン期からの大学のあり方に対する改革が進められた。当時のドイツの大学の隆盛を踏まえつつ,グランド・ゼコールとの対比の中で,大学は単なる職業教育ではない,「科学」の行われる場であることが強調された。この文脈で新たな諸学問が大学に導入され,「研究所」等も新たに創設された。また科学の普遍性,総合性を体現する場として,ファキュルテの分立ではない総合大学(フランス)(université: ユニヴェルシテ(フランス))の設立が目指され,1896年の総合大学設置法に結実する。ただしこれは各大学区の既存のファキュルテの連合体にユニヴェルシテの名を与えたにとどまるともされる。文科,法科,理科,医科の4種のファキュルテをすべて備えていたのはパリ,リヨン,ナンシーのみであったが,パリ大学においても各ファキュルテの「自治」は大きくは変わらなかった。
[1968年五月革命とその後]
パリ大学ナンテール分校での大学寮の問題に端を発した学生運動は,その後労働者をも巻き込む形で拡大し「五月革命」に至った。五月革命の主たる攻防の場は,ソルボンヌのあるカルティエ・ラタンであった。五月革命は,「68年世代」という言葉が用いられるように時代の転換を象徴するものであるが,その背景には,第2次世界大戦後に生まれたベビーブーム世代が大学に進学する年齢となり,学生数の増加や大学教育の社会的な意味の変容などが生じてきたことがある。
五月革命の,大学に対する直接的な影響としては,1968年11月12日の高等教育基本法(フランス)(エドガール・フォール法(フランス))の制定が挙げられる。この法律で,大学区に複数の大学を創設することが可能であると述べられ,1970年12月23日の政令によって,パリ大学はパリ第1大学からパリ第13大学の13の大学に分かれることとなった。また,それまでのファキュルテが解体され,おおよそ「学科」のレベルに相当する「教育研究単位(フランス)(UFR)」によって大学が構成されることとなり,インターディシプリナリーな学問を推奨するという方向性も示された。さらに「参加」の観点から教員,学生,職員,学外識者による評議会が設けられることとなった。
[今日のパリ大学]
近年のフランスの高等教育の改革の動きとして,2007年8月10日に成立した「大学の自由と責任に関する法律(LRU)」を展開する形で,2013年7月22日には「高等教育・研究法」が新たに成立している。LRUに先立つ2006年4月18日の「研究計画法」によって設立された「研究・高等教育拠点(PRES)」が,この「高等教育・研究法」によって廃止され,「大学・高等教育機関共同体(フランス)(COMUE)」に置き換えられたが,PRESおよびその後継のCOMUEは,大学,グランド・ゼコールをはじめとする各種高等教育機関,諸研究機関を集める形で組織されている。COMUEの導入によって13に分かれていたパリの大学は,Université Paris-Est(含パリ第12大学),Université Paris lumières(含パリ第8,第10大学),Université Paris-Saclay(含パリ第11大学),Paris sciences et lettres(含パリ・ドフィーヌ=旧パリ第9大学),Université Sorbonne Paris Cité(含パリ第3,第5,第7,第13大学),Sorbonne Université(含パリ第2,第4,第6大学)の六つのCOMUEに再構成されつつある。なお,パリを中心とするイル・ド・フランス圏には,ほかにHeSam UniversitéおよびUniversité Paris-Seineの二つのCOMUEがある。
近年は地方分権の政策が進められているものの,中央集権的な性格の強いフランスにおいて,首都に位置するパリ大学は,フランスの大学界において大きな存在であり続けている。
著者: 白鳥義彦
参考文献: クリストフ・シャルル,ジャック・ヴェルジェ著,岡山茂,谷口清彦訳『大学の歴史』白水社,2009.
参考文献: 田原音和『歴史のなかの社会学―デュルケームとデュルケミアン』木鐸社,1983.
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
フランスの総合大学の一つで,パリおよびクレテイユ,ベルサイユの3大学区にある13大学の総称。他の大学区と同じように,教育課程は3段階に分かれ,第1課程(2年)と第2課程(2年,医学系では4年)の前半が,日本の教養・専門課程に該当し,第2課程の後半と第3課程(3年)が大学院に該当する。1996年現在の在籍者数は,全13大学で約30万人。国立行政学院(ENA),エコール・ポリテクニク(理工科大学),高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)などは〈グランドゼコール〉とよばれ,大学とは別個の組織である。
ヨーロッパ最古の大学の一つであり,ヨーロッパの大学の原型ともなったパリ大学の起源は,12世紀にまでさかのぼる。国際的な学問の中心地であるパリで私塾を開いていた教師たちが,教育内容を統轄し特権を確保するためギルドを結成し,ローマ教皇やフランス国王の保護をうけて,13世紀前半期に自治団体として成長したものがパリ大学である。神学・教会法・医学の3上級学部と学芸学部があり,構成員は出身地別に,ノルマンディー,ピカルディー(パリ北方からベルギーまで),フランス(パリを含む上記以外の全フランスとイタリア,スペイン),イギリス(イギリス,オランダとライン以東の全ヨーロッパ)の4国民団に分かれていた。セーヌ左岸に学校や学生の居住区が集中し,学生はラテン語を使用したので,いまでもその地区はラテン区(カルティエ・ラタン)とよばれる。初期には外国人学生も多い国際的な大学で,学問上の権威も高く,自治団体としての活動も活発であったが,百年戦争や王権の中央集権化の過程で,外国人も減少,学問も硬直化し,主要な特権も廃止されて,〈フランス国王の長女〉といわれるように王権に従属した。宗教改革以後,パリ大学はカトリックとガリカニスムの牙城としてイエズス会の勢力が強く浸透し,17~18世紀の科学・哲学の革新運動にはパリ大学はほとんど関与していない。中世以来100以上の学寮がつくられたが,神学生のためのソルボンヌ学寮(1257)はとくに有名で,のちには神学部ひいてはパリ大学そのものの代名詞ともなった。
フランス革命による旧大学の閉鎖後,ナポレオン1世の〈帝国大学令〉(1807)によって,全国は16の大学区に分割され,各大学区に相互に独立した学部が設置されたとき,パリ大学区には,神・法・医・理・文の5学部がおかれた。第三共和政時代に神学部が廃止されて薬学部が設置され,また学部の集合体として〈大学〉という名称も復活(1896)するなど,制度上の改変はみられたものの,総長は文相の任命によるなど,強い国家統制は変わらない。一方,専門家を養成するためには,国立古文書学院(1821)や高等研究院(エコール・プラティーク・デ・オートゼチュード。1868)などが,大学とは別個につくられた。1968年の五月革命を契機に大学改革の機運は高まり,高等教育基本法(1969)によって,現在の大学制度が成立した。学部は廃止されて,応用数学,英米文学などの専門的な研究・教育単位である〈ユニテ〉に再編され,パリ大学区でも,1大学区1大学制から,20前後のユニテからなる13の独立した大学に改組された。同時に,大学評議会が総長を選出するなど,大学自治の原則が大幅に採用された。
→ソルボンヌ
執筆者:田中 峰雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
12世紀中頃ノートルダム大聖堂付属神学校より昇格し,教皇インノケンティウス3世,フランス王フィリップ2世の保護を受けて「ウニウェルシタス(教授学生組合)」として発展し,神学,哲学を中心に「諸学の親」と呼ばれる学府となった。1250年ソルボンが神学部を確立。トマス・アクィナスをはじめ有名なスコラ哲学の教授が教壇に立った。教会の大分裂時代まで神学の最高権威であった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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