ビジャヤナガル王国(読み)ビジャヤナガルおうこく

改訂新版 世界大百科事典 「ビジャヤナガル王国」の意味・わかりやすい解説

ビジャヤナガル王国 (ビジャヤナガルおうこく)

14世紀初めからイギリス東インド会社の侵入までの約300年間,南インド一帯を統治したヒンドゥー王国。1336-1649年。サンガマSangama朝(1336-1485),サールバSāluva朝(1486-1505),トゥルバTuluva朝(1505-69),アーラビードゥĀravīdu朝(1569-1649)という,血統の異なる四つの王統によって継承された。ハリハラHarihara,ブッカBukka2兄弟が創建したといわれる王国は,ハンピ(現,カルナータカ州ベッラーリ県)近郊のビジャヤナガルVijayanagar(〈勝利の町〉の意)を首都としたが,その後,ペヌコンダ,チャンドラギリ,ベロールに遷都した。王領はクリシュナー,トゥンガバドゥラーの両河地域を中心に,16世紀初頭の最盛時には,東はベンガル,オリッサ,西はデカン地方西部,南はセイロンにまで及んだ。もっともマラバール地方の諸海港王国はビジャヤナガルとの朝貢関係をもちつつ,独自の体制を維持した。

 南インド史上この王朝は次のような特徴をもっていた。まず軍事・外交面では3世紀にわたって,イスラム系バフマニー朝と南インドの覇を競い,ムスリム五王国とのターリコータの戦(1565)での敗北は王国の衰退とその後の滅亡を早めたと考えられる。内政面では,国王(ラーヤ)を頂点として官僚層,地方領主の間に臣従関係が形成され,象,馬,歩兵による強力な軍隊組織,地方長官,太守を中心とした地方行政・徴税組織が維持された。また,村落や郡(ナードゥ)の地方社会では各種の商人・職人集団が台頭し,寺院や交通の要衝を中心に商品生産,交易に従事したこと,また王国は彼らからさまざまな職業税,関税,市場税を徴収していたことは碑文などの史料に数多く記録されている。16世紀後半にはナーヤカ,ポリガールと呼ばれるさまざまな土豪,領主,在地有力支配者が各地に輩出し,彼らの中から半独立のナーヤカ領国やマッラバン族による土豪領もつくり出された。

 対外的には,13世紀以来,マルコ・ポーロイブン・バットゥータら数多くの外国人が南インドを訪れ,中でもペルシア人アブド・アッラッザーク・アルサマルカンディー,ロシア人ニキーティンAfanacii(Athanasius) Nikitin,ポルトガル人D.バルボサ,パエスDomingos Paes,ヌーネスFernão Nunesらは王国に関する詳細な見聞記録を残し,今日,王国史の貴重な史料となっている。明代の中国で西天阿難功徳国として知られ,また鄭和遠征隊が朝貢を求めた甘巴里国と呼ばれる国がビジャヤナガル王国ではないかとも考えられている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビジャヤナガル王国」の意味・わかりやすい解説

ビジャヤナガル王国
びじゃやながるおうこく
Vijayanagar

南インドの王国。四つの王朝が交替し、14世紀中葉から17世紀中葉にかけてクリシュナ川以南の半島部を支配した。14世紀初頭の南インドは、デリー・サルタナット軍の侵入によって混乱に陥ったが、スルタンからトゥンガバドラー河畔の地の統治をゆだねられたハリハラは反旗を翻し、弟と協力して同川南岸にビジャヤナガラを建設し、1336年その地で戴冠(たいかん)しサンガマ朝を創始した。彼を継いだ弟のブッカの時代には、南方のマドゥライムスリム政権をも倒し、半島南部を統一し、15世紀前半にはその勢力は北西方オリッサ(現、オディシャ)地方にも伸張した。15世紀末のサールバ朝の時代には、北方のバフマン朝との抗争が激化し、それを食い止めた将軍ナラサ・ナーヤカの子が、16世紀初頭に王位簒奪(さんだつ)し、トゥルバ朝を創始した。それを継いだ弟のクリシュナデーバラーヤはバフマン朝分裂後の北方のムスリム諸勢力と戦って勝利を得、クリシュナ川北岸にまで領土を拡大した。彼は、当時半島西岸部に進出してきたポルトガル人とも友好関係を保ち、王国に最盛期をもたらした。彼の死後ラーマラージャが摂政(せっしょう)となって権力を振るったが、1565年北方のムスリム連合軍と戦ってターリコータの地で大敗し、その結果ビジャヤナガラも落ち、王国は混乱した。ラーマラージャの弟ティルマラは、南東方のベヌゴンダに退いて王位につき、王国は彼の創始したアーラビードゥ朝の下に約100年の余命を保つが、北方からのビジャープール、ゴールゴンダの侵入が相次ぎ、王国各地方ではナーヤカとよばれる地方統治者の勢力が伸び、17世紀中葉ついに滅亡した。

 14~17世紀は海上ルートによる東西貿易の栄えた時代で、中国、ペルシア、ヨーロッパなどの各地からの旅行者が王国を訪れて記録を残している。なかでも16世紀前半のポルトガル人ヌーネスとパイスは、王国のありさまを詳細に記述し、首都ビジャヤナガラを当時世界でいちばん繁栄した都市として称賛している。そのようすは今日ハンピに残る広大な遺跡からもうかがうことができる。ナーヤカによる地方統治については、西欧の封建制度との類似についても指摘されている。王たちはヒンドゥー教を信奉し、とくにそのビシュヌ派に厚い保護を与えた。寺院建築様式としては、柱の装飾が華美になり、門塔(ゴープラム)が高くそびえるのがこの時代の特徴である。

[辛島 昇]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ビジャヤナガル王国」の意味・わかりやすい解説

ビジャヤナガル王国
ビジャヤナガルおうこく
Vijayanagar

南インドのヒンドゥー王国 (1336~1649) 。 13世紀以降,デカン,南インドにあったヤーダバ朝パーンディヤ朝などのヒンドゥー諸王朝は,ムスリムのデリー・サルタナットによって攻撃され,次々と滅ぼされていったが,北からのムスリム勢力の攻撃に対抗し,ヒンドゥー勢力を結集してハリハラとブッカの兄弟がビジャヤナガルに都してヒンドゥー王国を創始した。この王国は南インドを代表するヒンドゥー王国としてデカンのバフマニー朝やその分裂後に成立した5王国と戦いを続けた。クリシュナデーバラーヤ王 (在位 1505~29) の時代に最盛期を迎えたといわれるが,その後弱体化し,1565年にはビジャープルのアーディル・シャーヒー朝を中心とする5王朝連合軍とターリコータに戦い,敗北した。この王国は領内にマンガロール,カリカット,プリカットなどの良港をもち,外国貿易で栄え,その繁栄は当時この地を訪れたヨーロッパ人を驚かせた。

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世界大百科事典(旧版)内のビジャヤナガル王国の言及

【インド】より

…デリーの政権は14世紀初めに南インドにまで支配権を及ぼしたが,同世紀の半ばに弱体化し,その結果,亜大陸各地にイスラム,ヒンドゥー教を奉ずる諸王国の独立をみた。そのうちのビジャヤナガル王国(14~17世紀)は,デカン南部に興り,近隣のイスラム諸政権に対抗しつつヒンドゥー教とインド古来の伝統を守った。この王国はまた海上貿易で巨富を得た。…

【カルナータカ[州]】より

…8~10世紀にはカンナダ人王朝ラーシュトラクータが成立し,その下でカンナダ文学・建築などが発展した。12世紀ころに始まるイスラム教徒(ムスリム)勢力の侵攻に対抗して,ヒンドゥー教徒勢力として再興したのが,州中部のビジャヤナガルに首都をおくビジャヤナガル王国(1336‐1649)であった。これらの諸王朝はデカン高原と西海岸を版図に収め,海上交易を重視していた。…

【地主】より

…しかもこれらの土地所有者は必ずしも直接耕作者ではなく,地主や領主の性格をもつ者であった。イスラム勢力の直接的な支配を受けなかったビジャヤナガル王国では,バラモンの地主以外に,レッディ,ベラーラ,ガウンダなどの非バラモン有力カーストの中から,数ヵ村ないし数十ヵ村の所領を支配し,水利権,徴税権,軍事権を保持する者も現れた。彼らの中でとくに有力な者はナーヤカと呼ばれ15世紀以降には数県にまたがる地域を一円支配する領主となる者もいたし,また,ナーッタム,パーライヤッカーラン(ポリガール)と呼ばれる地主・小領主層も南インドの南部に現れた。…

※「ビジャヤナガル王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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