1620年信仰の自由を求めてメーフラワー号で新大陸ニューイングランドに渡来,プリマス植民地を開いたイギリスの分離派ピューリタン。広義では彼らを主力とする102名の移住者全員を指す。中核の人たちはノッティンガムシャーの小村スクルービー近郊の農民で,地方の名士ウィリアム・ブルースターや牧師ジョン・ロビンソンの指導で信仰を養い,迫害によりオランダ亡命を決意した。10年間定住したオランダのライデンでの生活苦や子弟の教育の悩みから,アメリカ移住を図り,ロンドン商人の援助で資金と入植許可を得た。移住したライデンの仲間は,ブルースターや後に総督となるW.ブラッドフォード以下40名(教会員35名)で,本国で集められた他の移住者と合流して渡航したが,入植最初の冬に半数が病死した。ブラッドフォードが聖書にちなんでみずからを〈この世の旅人〉と呼んだので,後に〈巡礼父祖Pilgrim Fathers〉の名が冠せられた。
執筆者:大下 尚一
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1620年メイフラワー号で北アメリカに渡ったピューリタンその他の人たち。巡礼始祖と訳される。ピューリタンのうち分離派とよばれる人々は、宗教的迫害から1608年オランダに逃れたが、ブラッドフォードらはさらにアメリカ大陸への移住を決意し、イギリスのサウサンプトンに寄ってイギリスからの参加者を加え、総勢102人(うちピューリタンは35人)で、20年11月北アメリカ沿岸に到着。船上でメイフラワー契約を結んだのち、同年12月21日マサチューセッツ州の沿岸(のちのプリマス)に上陸、最初の冬の間に半数以上が死亡したが、屈することなく、プリマス植民地の基礎を築いた。
[松村 赳]
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自分たちの信仰を守りつつ生活できる土地を求め,1620年にメイフラワー号に乗って北アメリカに渡り,プリマス植民地を建設した分離派(イングランド国教会を批判し国教会から離れた人々)の植民者たち。
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…それは中世にみられる分派(セクト)と異なり,国家権力を離れることによってかえって教会独自の力を回復し,世俗化を積極的にうけとめるものであった。1620年にアメリカに移住したピルグリム・ファーザーズ(〈巡礼の先祖たち〉の意)につづいて多くのピューリタンがニューイングランドに植民地をもうけ,神政制を緩和して教会を中心とする民主的なタウン・コミュニティを建設した。教派は伝統的教会から別れるが,教会本来の課題に積極的にとり組むという点で,教会と本質を異にするのではない。…
…エリザベスの死後ジェームズ1世が即位したとき,ピューリタン牧師たちは〈千人請願〉を提出し改革の推進を求めたが,《欽定訳聖書》作成の願望以外はすべて受けいれられず,国教会体制はさらにひきしめられて継続することとなり,不満なグループはオランダやニューイングランドに移住するようになった。1620年メーフラワー号の人々(ピルグリム・ファーザーズ)がプリマスヘ上陸し,30年以降はボストン周辺へ大移住を行った。後者がニューイングランド・ピューリタニズムの最初のにない手となった。…
…メーフラワー誓約書ともいう。ピルグリム・ファーザーズ(巡礼父祖)によって,プリマス植民地建設にあたり,その乗船メーフラワー号上で結ばれた市民的政治団体civil body politic形成の契約書である。イギリスのピューリタンの中で,国教会から分離して独立の教会を形成することを主張していた分離派の一部は,信教の自由を求めて1608年オランダへ脱出した。…
※「ピルグリムファーザーズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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