オランダの総合電機会社。2009年の『フォーチュン』誌(アメリカの経済誌)のグローバル500社のランキングでは第195位、電機産業部門では第9位である。1891年フレデリック・フィリップスFrederik Philips(1830―1900)は長男ジェラルドGerard(1858―1942)とともにオランダ南東部アイントホーフェンにおいて、白熱電球およびその関連機器の製造・販売を目的としてフィリップス商会Philips & Co.を設立した。当初は事業がうまくいかず、倒産の危機に瀕(ひん)していたが、末子アントンAnton Philips(1874―1951)が事業に参画するに至り、その優れたセールス活動によって業績は好転した。1912年に社名をフィリップス・グロエランペン・ファブリケン社N.V. Philips' gloeilampen fabriekenと改称。1914年にはタングステン電球の時代に呼応して、研究所を設立し、翌年アルゴン入り電球を開発、1918年には医療向けX線管の開発に成功した。翌年ベルギーに子会社を設立し、多国籍化の道を歩み始めた。
その後、事業の多角化を推進し、ラジオの送・受信機、拡声機、蓄音機、トーキー映写機、電気かみそりなどの分野にも進出した。第二次世界大戦ではナチスの支配下に置かれたが、戦後、再建活動が始められた。1962年にコンパクトカセット式磁気テープを発表、1963年にはプランビコン(テレビジョン用の撮像管の一種)を開発、1972年には光ディスクの元祖であるレーザーディスク(LD、ビデオディスクともいう)を開発、1983年にはコンパクトディスク(CD)を開発している。1991年、社名をフィリップス電機Koninklijke Philips Electronics N.V.に改称。1990年代初めには大幅赤字にみまわれ、赤字部門の売却や6万人に及ぶ人員整理を行った。2000年には96億ユーロの純利益を計上したが、その後2年は連続して大赤字となり、3万5000人の人員整理や航空事業部の整理を行うとともに、選択と集中の戦略をダイナミックに採用し、医療、家電、照明などを重点事業分野とした。2013年、現社名に改称。
2012年の売上高は247億8800万ユーロであり、構成比は、医療システム40%、家電・音響機器・理美容など24%、照明34%など。地域構成は、ヨーロッパ26%、北米31%、その他先進国8%、新興国35%で、従業員数は約11万8000人。
1952年(昭和27)に松下電器産業(現、パナソニック)との合弁で松下電子工業を設立、テレビの製造を開始し、日本市場への参入を図った。その後、1993年(平成5)にフィリップス社の所有株式35%を松下電器産業に売却し、合弁契約を解消している(松下電子工業は2001年に松下電器産業に吸収合併)。1953年には最初の日本法人として日本電子開発を設立、1972年に日本フィリップスと改称した。2005年(平成17)には、フィリップスメディカルシステムズと合併して、社名を現在のフィリップスエレクトロニクスジャパンとした。
[湯沢 威・上川孝夫]
『フレデリック・フィリップス著、日野克美訳『フィリップスとともに』(1979・PHP研究所)』
アメリカの実験物理学者。ペンシルベニア州生まれ。高校1年が終わった夏休みにデラウェア大学で物理実験を体験し、指導した大学院生に「実験物理は趣味と実益を兼ねられる」といわれて実験物理に目覚める。1966年にジュニアタ大学に進学。4年のときアルゴンヌ国立研究所で電子スピン共鳴の実験をし、実験物理がますます好きになる。卒業後、マサチューセッツ工科大学(MIT)で水素メーザーの実験を行い、1976年に博士号を取得。さらに2年間MITで研究を続けた後、1978年に国立標準局(現、国立標準技術研究所)に就職した。
1980年代初めに、磁場を使って気体の原子の位置を動かないように固定する技術を開発し、1985年にはナトリウム原子を使って実証した。さらにS・チューが開発した、レーザーで原子の温度を下げて動きをおさえる手法を導入し、それまでの理論では考えられなかった極低温にまで冷やすことに成功。フランスのC・コーエンタヌジの研究グループと共同して、ヘリウムの気体原子を秒速2センチメートルのスピードまで冷却、減速することに成功した。原子を捕捉(ほそく)するこの技術で、原子そのものの姿を観察し、原子時計の精度を上げる研究も進んだ。「レーザー光による原子の冷却と捕捉」により、チュー、コーエンタヌジとともに1997年のノーベル物理学賞を受賞した。
[馬場錬成]
イギリスの古生物学者。ウィルトシャーで生まれる。「層序学の父」といわれるW・スミスの甥(おい)にあたる。スミスの手ほどきを受け地質学の道に入った。1824年にヨーク博物館の展示を担当してから、ロンドン、ダブリン、オックスフォードの各博物館の展示を委任され、1834年にはキングズ・カレッジ、1856年にはオックスフォード大学の地質学教授に任命されている。化石の変化に基づいて、1841年に初めて「古生代、中生代、新生代」の名称を提唱した。
[大森昌衛]
イギリスの作曲家、オルガン奏者。ロンドンのセント・ポール大聖堂少年聖歌隊員を経て、1582年カトリックであるという信仰上の理由からローマに渡り、同地でオルガン奏者。89年ブリュッセルに定住。一時アントウェルペンに移ったのちブリュッセルに戻り、97年アルブレヒト公のオルガン奏者となり同地で没す。マドリガル、モテットなどの声楽曲を多く作曲し、イタリアとイギリスの様式を融合させた作風を示す。鍵盤(けんばん)楽曲においてはイタリア・マドリガルの編曲ものを作曲する一方、イギリス・バージナル音楽の伝統的舞曲形式による作品も残している。
[南谷美保]
オランダの企業家で,フィリップス・グロエランペンファブリケン社(フィリップス社)の経営者であった。ザルトボンメルのタバコ事業家の子として生まれた。商業学校で学んだのち,株式仲買の会社に入り,さらにロンドンで取引を修業した。父フレデリックFrederik Philipsとデルフト工科大学で学んだ技術者であった兄ヘラルドGerald Philipsは,1891年にアイントホーフェンで電球製造のためにフィリップス社を設立した。しかしフィリップス社の電球は,ヨーロッパ各地の販売代理店に問題があったので,ジーメンス社やAEG(アーエーゲー)社との競争に敗れた。そのためアントンがロンドンから呼び戻されて,フィリップス社の経営にあたった。彼はヨーロッパ各地をまわり,すぐれた経営手腕を発揮して同社をたてなおした。第1次世界大戦中には,ドイツやオーストリアから電球用ガラスを買えなくなり,自給のためガラス工場を設立した。オランダは第1次大戦で中立であったので,国際市場におけるフィリップス電球のシェアは増大した。ヘラルドは1922年に引退し,フィリップス社の経営はアントンにゆだねられた。軍備上の必要から,フィリップス社は無線機器の製造にのりだした。また,アントンはラジオ放送の発展を確信して,ラジオ機器の生産につとめるとともに,24年に始まったオランダにおける放送事業にも参加した。フィリップス社の研究部門は,ナトリウムランプなどの放電灯の開発においてすぐれた業績をあげた。こうしてフィリップス社は,ヨーロッパ各国をはじめアメリカに子会社をもつ,ヨーロッパで最有力の電気機器メーカーとなった。
執筆者:高橋 雄造
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