プラハの春(読み)プラハのはる

旺文社世界史事典 三訂版「プラハの春」の解説

プラハの春
プラハのはる

1968年チェコスロヴァキアにおいて自由化運動が進められた時期の名称
チェコスロヴァキアでは,ノヴォトニー第一書記によるスターリン的しめつけに対する反発が生まれ,経済の停滞から1968年1月にノヴォトニーが失脚して改革派のドプチェクが第一書記に就任した。ドプチェクは「人間の顔をした社会主義」を唱えて言論の自由化や市場原理の導入などの改革を断行共産党は4月の行動綱領でこの路線を確認し,知識人らも6月に「二千語宣言」を発表して自由化支持を表明した。この“プラハの春”は,共産圏からのチェコスロヴァキアの離脱と東欧諸国への波及を恐れるソ連介入を招き,8月20日ワルシャワ条約機構軍(主力はソ連と東独軍)がプラハに侵攻して武力弾圧を行った(チェコスロヴァキア事件)。ドプチェクは解任されて改革は終息し,第一書記となったフサークの下で改革派は共産党から追放され,ソ連との関係改善をはかる「正常化政策」が進められた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「プラハの春」の解説

プラハの春
プラハのはる

1968年春にチェコスロバキアで起きた民主化の動き。 68年1月,改革派の A.ドプチェクが党第一書記に就任,独自の社会主義路線を宣言して,国家による事前検閲の廃止,市場経済方式の導入による企業の独立化などの政策を打ち出した。社会主義体制の危機を感じたソ連のブレジネフ政権は,同年8月ワルシャワ条約機構軍 20万人を投入し,その民主化の動きを圧殺した。ドプチェクは解任されフサーク政権が誕生した。 89年 12月,モスクワでのワルシャワ条約機構会議で,当時プラハの春に介入した5ヵ国はこれが誤りであったことを認めた。 (→チェコスロバキア史 )

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デジタル大辞泉「プラハの春」の解説

プラハ‐の‐はる【プラハの春】

チェコスロバキアで1968年の春から夏にかけて、新任ドプチェク党第一書記の下に一連の自由化政策がとられた状況をいう。8月に、ソ連・東欧軍の介入により弾圧された。

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世界大百科事典内のプラハの春の言及

【チェコスロバキア】より

…この間,49年にはCOMECON(コメコン)に参加,55年にはワルシャワ条約機構に加盟した。
[〈プラハの春〉]
 56年にフルシチョフによるスターリン批判が行われても,チェコスロバキアの非スターリン化は遅れ,スターリン主義者のノボトニーが社会主義体制を強化した。60年7月には社会主義共和国憲法が採択された。…

【東欧】より

…この時期にとくに顕著な自由化を試みたのはチェコスロバキアであった。作家同盟や党内の知識人を中心とする自由化運動は,スターリン批判の不十分であった党と政府を動かし,ドゥプチェクを党の新指導者として,68年には〈プラハの春〉と呼ばれる高まりを見せた。ドゥプチェクらは慎重に改革を試みたが,夏にはソ連をはじめとするワルシャワ条約機構軍の介入を招き,〈プラハの春〉は挫折した(チェコスロバキア事件)。…

※「プラハの春」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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