日本大百科全書(ニッポニカ) 「プレボー」の意味・わかりやすい解説
プレボー(Antoine François Prévost d'Exiles)
ぷれぼー
Antoine François Prévost d'Exiles
(1697―1763)
フランスの小説家。通称アベ・プレボーl'abbé Prévost。アルトワのエダンに生まれ、イエズス会系の学校で学業を終えたのち、軍隊に入隊するが、以後いくつかの修道会と軍隊を転々とするといった、波瀾(はらん)に富む青年期を送った。この間、オランダとイギリスにも滞在している。
修道生活中から、プレボーは『隠棲(いんせい)したある貴人の回想録』(1728~31)という膨大な作品集を準備していたが、その七巻目を別巻で出版したのが『マノン・レスコー』(正しくは『シュバリエ・デ・グリューとマノン・レスコーの実話』La véritable histoire du chevalier Des Grieux et de Manon Lescaut)であり、今日一般にはプレボーといえば『マノン・レスコー』一作の作者としてだけ知られているほど、この作品は有名である。この小説は著者の多感な青年時代を思わせる自叙伝的要素の強い作品とも考えられており、すべてをなげうって激しい情念を燃え尽くすデ・グリューと小悪魔的に美しいマノンの恋愛は、プレボーの宗教観の投影もあって、現世では成就(じょうじゅ)できない宿命を帯びていることからもその観が強い。
ほかに彼の文学上の功績としては、同時代のイギリスの作家リチャードソンの作品のフランス語訳があげられ、とくに『パミラ』Pamela(原作1741、仏訳1742~43)は彼の翻訳によって広くヨーロッパに膾炙(かいしゃ)したことは重要である。1763年、シャンティイで脳卒中のために他界した。
[市川慎一]
プレボー(Jean Prévost)
ぷれぼー
Jean Prévost
(1901―1944)
フランスの批評家、小説家。サン・ピエール・ヌムールに生まれる。高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)卒業後、『NRF(エヌエルエフ)』系の批評家として文壇に登場。知性、内観、祈りを通して、肉体や自然との調和を図り、ひいては魂の本質に迫る探究を試みた(『内観試論』Essai sur l'Introspection1927)。また、伝記的要素にほどよい小説家的想像力を交えた佳作『モンテーニュの生涯』La vie de Montaigne(1927)を書く。彼の批評は、作品を構成するテーマを織り合わせ、文学的インスピレーション形成の現場に立ち会うことに成功する(『スタンダールにおける文学的創造』1942、『ボードレール』1953)。
また、小説の代表作『ブーカンカン兄弟』Les frères Bouquinquant(1930)で、三角関係のもつれを描いて通俗に陥らなかったのは、作者が人間の勇気や誇りに十分な照明を与えたからである。第二次世界大戦中、レジスタンス運動に参加、ドイツ軍に殺された。
[松崎芳隆]
プレボー(Marcel Prévost)
ぷれぼー
Marcel Prévost
(1862―1941)
フランスの小説家。パリの生まれ。理工科大学校(エコール・ポリテクニク)出身の技術者であったが、文学にひかれ、小説『愛人の告白』Confession d'un amant(1890)の成功で反自然主義作家として世に出る。『女の手紙』Lettres des femmesシリーズ(1892~1897)、『フランソアーズへの手紙』Lettres à Françoise(1902~1912)など一連の作品は、世紀末ブルジョア社会の風俗とモラルを皮肉に描くが、心理的深みに欠ける。代表作『半処女』Les Demi-Vierges(1894、劇化1895、映画化1923、1936)も、あらゆる堕落にしみながら、肉体の処女のみを守る当代パリ娘風俗を描いてスキャンダルをよんだゆえの成功というにとどまる。
[小林 茂]