1884年11月15日から85年2月24日まで100日余にわたってドイツのベルリンで開催された,欧米列強による〈アフリカ分割〉のための国際会議。1880年代初期のアフリカはすでにヨーロッパ諸国による植民地争奪戦の渦中にあり,いたるところでこれら諸国の利害対立が起こっていた。そこでビスマルクの提唱により,アフリカ分割の原則を定めるとともに,既得の権益を相互に調整したうえでこれを国際的に承認することを目的として,ベルリン会議が開催された。参加国はアフリカ分割競争に加わっていたイギリス,フランス,ドイツ,ベルギー,ポルトガル,スペイン,イタリアのほか,オーストリア,デンマーク,アメリカ,オランダ,スウェーデン,ロシア,オスマン帝国など合計14ヵ国にのぼり,全7章,38条からなるベルリン条約を締結して会議はその幕を閉じた。
同条約の主要部分は,コンゴ盆地の自由貿易(第1章)と中立化(第3章),コンゴ川の航行の自由(第4章)などを取り決めたいわゆるコンゴ盆地条約と,奴隷貿易の禁止に関する宣言(第2章),ニジェール川の航行の自由に関する協定(第5章),アフリカ大陸沿岸部での新規の領土併合に関するルール取決め(第6章)などからなっていた。ことに最後の点は重要で,これ以後アフリカ大陸沿岸部で領土併合を行う場合,その国はベルリン条約調印国にこれを通告し,両者間で利害の調整ができるようにすること,および併合地域に既得の権益を守り通商・通行の自由を保証しうるだけの実体を伴った権力を確立しなければならないこと,などが必要条件とされた。このほかコンゴ盆地についても,その地理的範囲を確定したうえで,これを自由貿易地域とすることが確認され,併せてベルギー国王レオポルド2世のコンゴ国際協会によるコンゴ盆地統治の権利が承認された。こうしてコンゴ盆地はレオポルド2世個人の私有財産となった。なお会議閉幕後の85年4月,コンゴ国際協会は改組されてコンゴ自由国となり,レオポルド2世はその国王を兼ねることが宣せられたが,同国が彼の私有財産であるという実態は変わらなかった。
ベルリン会議を契機として,ヨーロッパ列強によるアフリカ分割競争はいっそう過熱していった。各国は争ってアフリカ各地へ〈使節〉を派遣して現地首長と〈保護条約〉を締結し,植民地化を進めた。その過程で利害が衝突すると,列強はそれを調整したうえで植民地境界線をあらためて引き直した。その意味では,ベルリン会議中およびその直後のアフリカ分割は,よくいわれるように文字どおり〈紙上の分割〉であった。こうして20世紀初期までにアフリカの分割は完了した。
執筆者:小田 英郎
1877-78年の露土戦争の結果締結されたサン・ステファノ条約の内容を討議するため,78年6~7月にベルリンで開催されたヨーロッパ列国の会議。サン・ステファノ条約には,大ブルガリア公国の創設を足がかりとするロシア南下政策の意図が露骨に示されていたので,これに脅威を抱くイギリスとオーストリア・ハンガリーが強く反対した。〈誠実な仲介者〉を自任するドイツのビスマルクの呼びかけにより,イギリス,ドイツ,ロシア,オーストリア・ハンガリー,フランス,オスマン・トルコ,イタリアの7国代表がベルリンに集まって会議を開き,7月13日にサン・ステファノ条約を修正したベルリン条約に調印した。大ブルガリア公国の領土は約1/3に縮小され,ブルガリアが半独立の自治国として認められたほか,モンテネグロ(ツルナ・ゴーラ),セルビア,ルーマニアが独立国として承認された。また,露土戦争の端緒となる蜂起の生じたボスニア・ヘルツェゴビナ地方は,オスマン帝国の名目上の主権を残したままオーストリア・ハンガリーの占領・行政下に置かれること,クリミア戦争(1853-56)で失ったベッサラビアのロシア復帰などが定められた。この条約で,ロシアは戦勝の利益を奪われ,南下政策にも大きな打撃を受けたが,一方,オーストリア・ハンガリーはバルカン進出への基礎を築いた。オスマン帝国はその領土を大きく縮小され,衰退過程を速めた。またこの条約はバルカンにおける列強の勢力圏を確定するものであり,以後のバルカン諸民族の自主的な発展が妨げられた。
執筆者:柴 宜弘
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①〔1877~78〕1877~78年のロシア‐トルコ戦争はロシアに有利に終わり,78年3月,サン・ステファノ条約によってロシアはバルカンに大ブルガリアを建設し,これを支配下に収め,待望のバルカン進出,地中海進出が成功するかにみえた。しかし,イギリスとオーストリア‐ハンガリー帝国はロシアのバルカン進出に脅威を感じ,これに反対を唱えた。このとき,仲介外交のビスマルクのドイツが斡旋に乗り出し,78年7月,ベルリンにイギリス,オーストリア‐ハンガリー,ロシア,トルコが集まり会議が開かれた。この結果,セルビア,モンテネグロ,ルーマニアが独立し,ブルガリアは自治国として引き続きオスマン帝国の支配下に属することとなった。この会議でロシアはわずかにベッサラビアとアナトリアの一部を得ただけであるのに反し,イギリスはキプロス島,オーストリア‐ハンガリーはボスニア・ヘルツェゴヴィナを得,ロシア,オーストリア,ドイツはかつての三帝同盟関係から一挙に対立関係に発展するに至った。
②〔1884~85〕ベルリン・コンゴ会議ともいう。ビスマルクの提唱で1884年11月から翌85年2月までベルリンで開催された欧米列強14カ国によるアフリカ分割に関する国際会議。コンゴ盆地の自由貿易と中立化,コンゴ川およびニジェール川航行の自由,奴隷貿易禁止宣言,アフリカ大陸沿岸部の新規併合に関する原則の制定,ベルギー国王の私的組織であるコンゴ国際協会のコンゴ盆地統治権承認などを主な内容とし,各国の既得権益の調整を図った。同会議後,列強によるアフリカ分割は一層加速化した。
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ロシア・トルコ戦争(1877~78)講和のサン・ステファノ条約を修正するため、ドイツのビスマルクの仲介によって1878年6月13日から7月13日までベルリンで開かれた国際会議。ロシア、トルコ、イギリス、オーストリア、イタリアが参加した。ロシア・トルコ戦争で勝利を得たロシアは、サン・ステファノ条約でルーマニア領ベッサラビアと黒海東岸のトルコ領の一部の領有、またアルメニアにおけるスラブ系住民の保護権を獲得した。ルーマニア、セルビア、モンテネグロは独立し、さらにブルガリアは黒海からエーゲ海に及ぶ、広大な領土をもつ公国として承認された。しかし、ロシアの勢力拡大を警戒するイギリスは、対抗上、トルコに対しキプロス島を要求し、これを承認させた。これら列強の動きに対しオーストリアは不満を表明し、国際会議によって講和条約を決定すべきであると主張した。バルカン問題でドイツ、オーストリア、ロシア間の三帝同盟(1873)に亀裂(きれつ)が生じるのを恐れたドイツのビスマルクは、仲介役を買って出て、1878年6月のベルリン会議となった。
この会議で成立したベルリン条約では、サン・ステファノ条約の内容が大幅に修正され、ロシアの領土要求は認められたものの、ブルガリア公国の領土は3分の1に縮小され、引き続きトルコの宗主権下に置かれたのに対し、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアには独立が認められた。またオーストリアには、ロシア・トルコ戦争の原因であった反トルコ蜂起(ほうき)の地ボスニア、ヘルツェゴビナに対する行政権が与えられ、イギリスのキプロス島領有も承認された。この条約によりロシアとバルカンのスラブ系民族の不満が増幅され、いわゆる東方問題として、その後の国際政治を揺るがす素地をつくりだした。
[藤村瞬一]
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…まず75年,スエズ運河株17万株を買収して同運河を領有し,77年にはビクトリア女王をインド皇帝に推戴してインド帝国をつくった。ロシアの南下政策を頓挫させたベルリン会議(1878)の決定も,彼の大きな功績であった。だがその後は,アフガニスタン政策の蹉跌(さてつ),南アフリカ植民地での戦争の敗北などが重なってしだいに民心を失い,80年の総選挙に大敗して政権の座を下った。…
…正式名称=ブルガリア共和国Republika Bâlgarija∥Republic of Bulgaria面積=11万0912km2人口=877万人(1995)首都=ソフィアSofija(日本との時差=-7時間)主要言語=ブルガリア語(公用語),トルコ語通貨=レフLevヨーロッパ大陸の南東端,バルカン半島の東部にある国。ブルガリア語ではバルガリアBâlgariaと呼ばれる。第2次大戦後に社会主義国として〈ブルガリア人民共和国Narodna Republika Bâlgaria〉と称したが,1990年の体制変革により〈ブルガリア共和国〉となった。…
…実際,19世紀半ば以降のアフリカで最も精力的かつ大規模に布教活動を行った勢力のうち,カトリックを代表するのはフランスであり,プロテスタントを代表するのはイギリスであったが,このことは,きたるべきアフリカ分割の結果,この両国が最も広大な植民地を獲得した事実と符合していて,まことに興味深い。
[ベルリン会議とアフリカの分割]
19世紀がしだいに深まり,機械制大規模工業による資本主義がいっそう発展した結果,ヨーロッパ列強が帝国主義の段階に入ると,アフリカ分割の時代がはじまる。ヨーロッパ列強が帝国主義段階に入ったといわれる1870年代初めの時期についてみると,アフリカ大陸のうちでヨーロッパ列強の支配下に組みこまれていた地域は,沿岸部を中心に全体の10%程度にすぎなかった。…
…19世紀末のアフリカ分割の時代にはいると,フランス政府は探検家ド・ブラザを派遣してガボンのオゴウェ川流域からさらにコンゴ川流域にまで勢力をのばし,同じ時期にベルギー国王レオポルド2世によってコンゴに派遣され,ベルギー領コンゴの形成に貢献した探検家スタンリーと競い合うかたちで,フランス領コンゴの礎石を築いた。欧米列強はベルリン会議(1884‐85)で正式にこの地域に対するフランスの領有権を認めた。フランスは1910年にチャド,ガボン,ウバンギ・シャリ(現,中央アフリカ共和国),コンゴを統合してフランス領赤道アフリカに再編成し,ブラザビルを主都と定めた。…
※「ベルリン会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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