日本の近代法体制の形成に大きな貢献をしたフランス人法学者。1825年6月7日パリ近郊のバンセンヌで生まれた。パリ大学法学部を卒業し、1849年パリ控訴院付弁護士に登録。1864年教授資格取得試験に合格し、グルノーブル大学でローマ法の講義を担当、1867年にパリ大学の教授資格者に抜擢(ばってき)された。1873年(明治6)パリに滞在中の井上毅(いのうえこわし)ら司法省官員に憲法、刑法を講義したことが機縁となり、明治政府から招聘(しょうへい)され、同年11月に来日した。以後22年の滞在期間中に多方面にわたって貢献し、多くの業績を残した。まず、1874年から法律家の養成を目的に司法省法学校でフランス法や自然法論を講義した。そのほか帝国大学や、東京法学校(のち和仏法律学校、現、法政大学)、明治法律学校(現、明治大学)など草創期の私立法律学校において法学教育に尽力し、卒業後法典編纂(へんさん)や司法実務、法学教育などに活躍する多数の法律家を養成した。また、司法省を中心に元老院、外務省、法制局など政府諸機関に顧問として助言や献策を行うとともに、多様な質問に回答を与えた。とくに1874年の台湾出兵事件や1882年の壬午(じんご)軍乱の善後処理のために有益な助言を行い、さらに1887年の外相井上馨(かおる)の外国人裁判官任用案に反対意見書を提出するなど、外交上や条約改正に貢献した。また司法卿に拷問廃止を強く訴え、拷問制度の廃止に尽力した。主要任務である法典編纂では、まず1876年から刑法、治罪法の草案起草に取り組み、元老院などの審議を経て1880年公布、1882年施行の刑法(旧刑法)、治罪法に結実した。ついで1879年から草案起草にあたった民法は、法律取調委員会や元老院、枢密院などの審議を経て1890年公布の民法(旧民法)に結実したが、法典論争の結果、施行が延期となった。1895年帰国し、南仏アンティーブで1910年6月27日85歳の生涯を閉じた。
[吉井蒼生夫 2018年8月21日]
明治政府の法律顧問として22年間日本に滞在したフランス人法学者。1848年の2月革命のころ青春時代をすごし,その人道主義と理想主義の影響を受けたが,基本的には古典的自由主義者であった。73年パリ大学助教授のとき48歳で来日。当時の日本は,まだ維新後の混乱期にあり,国内的にも近代的法制度の整備を急いだが,とくに,最大の外交案件として条約改正問題をかかえ,その前提条件として列強が要求する法典編纂を成就する必要があった。ナポレオンの諸法典の名声により,モデルとしてフランス法が選ばれたため,彼が日本へ招かれた。その業績は多面にわたる。まず司法省法学校,明治法律学校(現,明治大学),和仏法律学校(現,法政大学)などで法学教育に従事し,多数の法律家を養成した。また,司法省を中心として,太政官(後に内閣),元老院,外務省,内務省,大蔵省,大審院,控訴院などのさまざまな問題に助言,献策,回答を与えた。とくに,拷問廃止の建白を行い,日本の拷問を制度上消滅させた。法典編纂は,刑法典(旧刑法典)と治罪法典(刑事訴訟法典のこと)から着手され,彼が仏文で草案を起草し,それを日本側が翻訳,審査修正するという手続を経て,完成し公布施行された。これが日本最初の近代法典である。ついで79年から,私法の基本法をなす民法典の草案起草にかかり(ただし,親族,相続の部分は日本人が起草),10年の歳月をかけて完成し,日本側の手続を経て圧縮され,90年に公布(旧民法典またはボアソナード法典とよばれる)された。この間,前年春から法典論争がおこり,延期派と断行派が激しく争ったすえ,旧民法典は施行延期となった。〈西洋法の原則は普遍的で日本にも通用する〉という彼の主張(自然法論)は,外国人が起草した〈泰西主義〉の法典は日本の国情に合わない,とするナショナリズムの攻撃に敗れた。しかし,旧民法典は,いわゆる〈根本的修正〉の結果成立した明治民法典(親族,相続を除き,現在も施行)のいわば胴体であり,その全編に影響を与えている。したがって,彼は日本近代法の父とよばれるにふさわしい。95年帰国した。
執筆者:大久保 泰甫
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(長尾龍一)
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1825.6.7~1910.6.27
フランスの法学者。パリ大学で法律学などを学び,グルノーブル大学・パリ大学の助教授を歴任。1873年(明治6)日本政府から招聘され,司法省法学校で自然法などを教授。治罪法・刑法案を起草したが,民法案は民法典論争がおき,不採用となった。和仏法律学校・明治法律学校でも教授し,在野法学教育の基礎作りにも尽力。22年間滞日して95年帰国。
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… 旧民法の編纂事業は,江藤新平によって指導された1870年の民法会議以来の民法編纂事業の流れをくむものであり,80年に元老院内に設置された民法編纂局によって本格的に開始され,条約改正事業との関係で一時外務省の管轄とされたが,最終的には司法省の手によって草案の完成をみた。この草案は,フランス民法典を模範とし,財産法(財産編・財産取得編(前半部分)・債権担保編・証拠編)の部分はG.E.ボアソナードが,家族法(人事編・財産取得編(後半部分=相続,贈与および遺贈,夫婦財産契約))の部分は,熊野敏三・磯部四郎・黒田綱彦・光妙寺三郎ら日本人が起草にあたった。家族法の第一草案は,全国の地方長官および司法官に回布されて意見を求められ,それにもとづいて修正された。…
…漢・仏両学の試験を経て入学した生徒20名(うち9名が南校よりの入学者)に対し,リブロールが普通学を,ブスケGeorges Hilaire Bousquet(1846‐1937)が法律学の特別講義を行った。その後74年4月から,ボアソナードとブスケによる本格的な法律学の専門教育が開始された。このときボアソナードが行った自然法の講義は,のちに《性法講義》(1877)として刊行されている。…
…天皇や皇族あるいはその墓などに対しその名誉を毀損する行為を処罰する罪名。不敬罪は,近代天皇制国家の成立にともない1880年(明治13)7月17日に公布された刑法典(旧刑法と呼ぶ)の第2編第1章〈皇室ニ対スル罪〉のなかに登場し,1907年の旧刑法全面改正(1908施行。以下,明治40年刑法と呼ぶ)においても若干の修正を受けたのみで残り,47年(昭和22),新憲法の施行にともなう刑法一部改正によって廃止されるまで,天皇や天皇制に関する思想や学問・言論の抑圧,さらには新興宗教団体の弾圧に猛威を振るった。…
※「ボアソナード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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