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ポーランド分割 ポーランドぶんかつPartitions of Poland

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ポーランド分割
ポーランドぶんかつ
Partitions of Poland

18世紀後半,プロシアロシアオーストリアの3隣接列強による3次にわたるポーランドの分割。 (1) 第1次分割 (1772.8.5.)  親ロシア的なポーランド王スタニスワフ2世アウグスト・ポニャトフスキに反抗したバール連盟に対するロシア軍の武力介入が直接的な契機で,第1次露土戦争 (68~74) でオスマン帝国を圧倒しつつ,その勢力を黒海沿岸に拡大したロシアをめぐり,ロシアとオーストリアとの関係が国際的戦争の危機をはらむにいたり,プロシアの主唱で実現をみた。プロシアはグダニスクを除く西プロシアを,ロシアは白ロシアドニエプル川以東を,オーストリアはマウォポルスカガリチア両地方を獲得。 (2) 第2次分割 (93.1.23.)  国家改革の成果として 1791年ポーランド議会で成立をみた『五月三日憲法』に反対した保守派のタルゴウィツァ連盟と,それに呼応したロシア軍の介入と平行し,フランス革命の動向に忙殺されていたオーストリアを除き,ロシアとプロシア2列強間で強行された。ロシアはリトアニア (リトワ) ,西部ウクライナを,プロシアはグダニスクと大ポーランド地方を獲得,併合した。 (3) 第3次分割 (95.10.24.)   94年の T.コシチューシコ蜂起と国土防衛戦の敗北後,オーストリアの推進で,これに軍事介入した3列強により遂行された。この結果,72年総面積約 73万 km2,人口約 1100万を数えたポーランドは,第1次世界大戦時の独立回復までの約1世紀半プロシアに 20%の領土と 23%の人口を,ロシアには 62%と 45%,オーストリアには 18%と 32%をそれぞれ分割,支配されるにいたった。

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デジタル大辞泉の解説

ポーランド‐ぶんかつ【ポーランド分割】

プロイセン・オーストリア・ロシアの3国が、1772年・1793年・1795年の三次にわたって行ったポーランドの分割・領有。第三次分割によってポーランド王国は消滅。
第二次大戦開戦直後の1939年、ドイツ・ソ連が行ったポーランドの分割・領有。

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百科事典マイペディアの解説

ポーランド分割【ポーランドぶんかつ】

ロシア女帝エカチェリナ2世は1762年寵臣(ちょうしん)スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキをポーランド国王に擁立。1772年プロイセン,オーストリアはロシアのポーランド干渉の増大を恐れ,ロシアを誘って各国の近接地を合併(第1次分割)。
→関連項目ウクライナフリードリヒ・ウィルヘルム[2世]ベラルーシポドリエポーランドポーランド回廊ラトビアリトアニア

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世界大百科事典 第2版の解説

ポーランドぶんかつ【ポーランド分割】

1772年,93年,95年の3回にわたってロシア,プロイセン,オーストリアが行ったポーランドの分割(ただし,オーストリアは1793年の2回目の分割には参加していない)。時期的にヨーロッパナショナリズム運動が登場してきたときと重なっていたため,重要な意味をもつ事件として注目を集めた。また17世紀のポーランドはヨーロッパの大国であり,それが周辺諸国による分割で簡単に消滅してしまったことは当時のヨーロッパの知識人にとって大きな衝撃であった。

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大辞林 第三版の解説

ポーランドぶんかつ【ポーランド分割】

一八世紀末にプロイセン・ロシア・オーストリアが三回にわたり行なったポーランドの分割。1795年の第三次分割によりポーランドは消滅。
第二次大戦開始直後の1939年にドイツとソ連により行われたポーランドの分割。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ポーランド分割
ぽーらんどぶんかつ
Rozbiory Polskiポーランド語
Partition of Poland英語

18世紀後半にプロイセン、ロシアおよびオーストリアによって3回にわたって行われたポーランドの分割。17世紀中ごろに衰退の道をたどり始めたポーランド王国は、18世紀中ごろに復興の兆しをみせたが、ロシアのエカチェリーナ2世は武力介入によってポーランドを保護国にしようと図った。これを恐れたプロイセンのフリードリヒ2世(大王)は、ロシアのバルカン進出に反対していたオーストリアを誘い、またさまざまな策謀によってロシアにポーランドの保護国化を断念させ、1772年3国による第一次分割が行われた。その結果、ロシアは西ドビナ川以北とドニエプル川上流域、プロイセンはグダニスクを除く東ポモジェ(西プロイセン)、オーストリアはガリツィアを獲得した。分割はポーランド人に大きな衝撃を与え、その後国政改革の気運がいっそう高まって、啓蒙(けいもう)主義の影響を受けた改革が推進された。そして世論の高まりとフランス革命の影響によって、1791年に「五月三日憲法」が制定され、これによって、17~18世紀の国政上否定的な役割を果たしたシュラフタ(特権的身分)の諸特権が廃止され、社会の近代化が促進された。しかし、新憲法の廃棄をもくろんだ国内の保守的なシュラフタの要請に応じて、ロシアがふたたび武力干渉を行い、これをみてプロイセンも軍隊を送った。このときオーストリアはフランス革命への対応に追われて介入できず、プロイセンの要求に従って、93年1月2国間で第二次ポーランド分割協定が成立した。その結果、ロシアは白ロシアの大半と西ウクライナ、プロイセンはグダニスクと大ポーランド(ポズナニ)を得た。そのため、国家存亡の危機にたたされたポーランド人は独立蜂起(ほうき)を計画し、94年3月コシチューシコの蜂起が起こった。蜂起軍は同年4月末第二次分割前の領土を回復したが、ロシア・プロイセン連合軍に圧倒され、鎮圧された。その結果、95年10月ロシア、プロイセン、オーストリアによって第三次分割が行われ、ポーランドは独立国としての地位を失った。[安部一郎]

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