ポーランド分割(読み)ポーランドぶんかつ

精選版 日本国語大辞典 「ポーランド分割」の意味・読み・例文・類語

ポーランド‐ぶんかつ【ポーランド分割】

プロイセンオーストリアロシア三国が一七七二年、九三年、九五年の三次にわたりポーランドを分割して滅亡させた事件。ポーランドは第一次世界大戦後に独立を回復するが、一九三九年、第二次世界大戦はじめにもドイツ・ソ連両国によって分割が行なわれた。

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デジタル大辞泉 「ポーランド分割」の意味・読み・例文・類語

ポーランド‐ぶんかつ【ポーランド分割】

プロイセン・オーストリア・ロシアの3国が、1772年・1793年・1795年の三次にわたって行ったポーランドの分割・領有。第三次分割によってポーランド王国は消滅。
第二次大戦開戦直後の1939年、ドイツ・ソ連が行ったポーランドの分割・領有。

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改訂新版 世界大百科事典 「ポーランド分割」の意味・わかりやすい解説

ポーランド分割 (ポーランドぶんかつ)

1772年,93年,95年の3回にわたってロシア,プロイセン,オーストリアが行ったポーランドの分割(ただし,オーストリアは1793年の2回目の分割には参加していない)。時期的にヨーロッパでナショナリズム運動が登場してきたときと重なっていたため,重要な意味をもつ事件として注目を集めた。また17世紀のポーランドはヨーロッパの大国であり,それが周辺諸国による分割で簡単に消滅してしまったことは当時のヨーロッパの知識人にとって大きな衝撃であった。以来,ポーランドやヨーロッパ各国で分割の原因をめぐって盛んに議論が展開されたが,これを大きく〈外因論〉と〈内因論〉に整理することができる。〈外因論〉は分割の原因を分割国の領土欲,ポーランド人による改革の試みに対する危機感などに求める議論で,ポーランド人自身に責任はないとするものである。逆に〈内因論〉は分割の原因をポーランド人自身,とくに国内に割拠して外国の宮廷と結び,ポーランドにアナーキーな状態を生み出したマグナート(有力なシュラフタ)のエゴイズムに求める議論で,分割国の行動はその当然の帰結であるとするものである。いずれも道徳論や感情に走りすぎる傾向が強く,また〈分割に至る暗黒史観〉的な前提が濃厚であった。ポーランド分割が学問的な議論の対象となるのは両大戦間期以後,つまりポーランドが独立して分割が現実の問題でなくなってからである。

 外国の干渉によって選出された最初の国王はアウグスト2世であるが,分割の前史はこのときに始まると考えてよい。ところが七年戦争の最中の1762年にロシア皇帝がピョートル3世に変わると,アウグスト2世の選出を可能にした国際環境が大きく変化することになった。オスマン・トルコやプロイセンに対抗してオーストリアと同盟を結んでいたロシアが,突如プロイセンと同盟を結んだのである。おかげでプロイセンは七年戦争に勝利し,オーストリア継承戦争でオーストリアから奪ったシロンスクシュレジエン)を確保することに成功した。トルコとの戦争に備えてポーランドを従順な同盟国にすることを考えたロシア皇帝エカチェリナ2世は64年スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキを国王に選ばせたが,ポーランドはおもわくどおりの従順な同盟国にはならなかった。まず国王がロシアに無断で王権強化の試みを始め,これに反対する〈共和派〉を助けてロシアが武力介入すると,逆に〈共和派〉がフランス,オーストリアの援助を得て武装抵抗を始めた。68年に露土戦争が始まったとき,ロシアは両面作戦を強いられることになったのである。オーストリアはロシアが動きを封じられているのに乗じてプロイセンと同盟を結び,シロンスクを取り戻す代りにポーランド領の一部をプロイセンに与えることを計画した。しかしトルコはロシアの動きを封じるにはあまりに弱く,またプロイセンもロシアとの同盟関係を破棄するつもりはなかった。かえってオーストリアは,バルカン半島に進出してきたロシアをなんとか押さえる必要に迫られることになったのである。

 ロシアはモルドバワラキアの領有を諦め,その代りにポーランド領の一部を獲得することになった。プロイセンのイニシアティブでまずプロイセンとロシアの間で条約が結ばれ,さらにオーストリアがこれに加わる形で3国による分割条約が締結された(1772)。この第1回目の分割でプロイセンは,かねてより領有を望んでいた王領プロイセン(1466年のトルン講和条約でポーランド国王がドイツ騎士修道会から獲得した領土。ただし,グダンスクはロシアの反対で領有できず)を得た。またオーストリアはガリツィア地方の一部(1769年にスピシュ地方を併合済み),ロシアはポーランド領リボニアおよびベラルーシ地方の一部を獲得した。1773年にセイムが召集され,レイタンTadeusz Rejtan(1746-80)ら一部議員が反対したが分割が承認された。

 しかし1778年にバイエルン継承戦争でプロイセンとオーストリアの対立が始まり,80年代に入るとトルコとの戦争に備えてロシアとオーストリアが接近を始めた。国際環境がポーランドにとって有利に展開し始めたのである。87年に露土戦争が始まり,翌年にはオーストリアもこれに参戦するに及んで,〈四年セイムSejm Czteroletni〉(1788-92年に活動し,直接に統治を担当することでさまざまな制度の改革を実現しようとした)は,プロイセンの援助でロシアの圧倒的な影響力を排除する挙に出たのである。プロイセンはオーストリアにガリツィア地方を返還させ,その代りにグダンスク,トルン,ビエルコポルスカ地方の併合を計画した。ところが,〈四年セイム〉はこれに同意せず,また92年に露土戦争を終結させたロシアが保守派(タルゴビツァ派)の要請で武力介入を行ったため,〈四年セイム〉の意図は成功しなかった。プロイセンは,〈四年セイム〉が1791年に〈五月三日憲法〉を無断で成立させたことを口実に援助を断ったばかりか,ロシアの武力介入に乗じてグダンスク,トルン,ビエルコポルスカ地方の一部を占領してしまった。

 対仏大同盟からの離脱をにおわせるプロイセンの態度に,フランスからの圧力を正面から受けていたオーストリアは2回目のポーランド分割に対して〈無関心〉を表明せざるをえなかった。93年にプロイセンとロシアの間で分割に関する条約が締結され,さらにグロドノに臨時に召集されたセイムがこれを承認した。この2回目の分割で,ポーランドは事実上,国家としての機能を停止したと考えてよい。94年コシチューシュコに率いられた蜂起が起こったが,あてにしていたフランスからの援助は得られず敗北した。95年の条約(第3回分割)でポーランドは,ヨーロッパの地図から消えてなくなるのである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポーランド分割」の意味・わかりやすい解説

ポーランド分割
ぽーらんどぶんかつ
Rozbiory Polski ポーランド語
Partition of Poland 英語

18世紀後半にプロイセン、ロシアおよびオーストリアによって3回にわたって行われたポーランドの分割。17世紀中ごろに衰退の道をたどり始めたポーランド王国は、18世紀中ごろに復興の兆しをみせたが、ロシアのエカチェリーナ2世は武力介入によってポーランドを保護国にしようと図った。これを恐れたプロイセンのフリードリヒ2世(大王)は、ロシアのバルカン進出に反対していたオーストリアを誘い、またさまざまな策謀によってロシアにポーランドの保護国化を断念させ、1772年3国による第一次分割が行われた。その結果、ロシアは西ドビナ川以北とドニエプル川上流域、プロイセンはグダニスクを除く東ポモジェ(西プロイセン)、オーストリアはガリツィアを獲得した。分割はポーランド人に大きな衝撃を与え、その後国政改革の気運がいっそう高まって、啓蒙(けいもう)主義の影響を受けた改革が推進された。そして世論の高まりとフランス革命の影響によって、1791年に「五月三日憲法」が制定され、これによって、17~18世紀の国政上否定的な役割を果たしたシュラフタ(特権的身分)の諸特権が廃止され、社会の近代化が促進された。しかし、新憲法の廃棄をもくろんだ国内の保守的なシュラフタの要請に応じて、ロシアがふたたび武力干渉を行い、これをみてプロイセンも軍隊を送った。このときオーストリアはフランス革命への対応に追われて介入できず、プロイセンの要求に従って、93年1月2国間で第二次ポーランド分割協定が成立した。その結果、ロシアは白ロシアの大半と西ウクライナ、プロイセンはグダニスクと大ポーランド(ポズナニ)を得た。そのため、国家存亡の危機にたたされたポーランド人は独立蜂起(ほうき)を計画し、94年3月コシチューシコの蜂起が起こった。蜂起軍は同年4月末第二次分割前の領土を回復したが、ロシア・プロイセン連合軍に圧倒され、鎮圧された。その結果、95年10月ロシア、プロイセン、オーストリアによって第三次分割が行われ、ポーランドは独立国としての地位を失った。

[安部一郎]

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百科事典マイペディア 「ポーランド分割」の意味・わかりやすい解説

ポーランド分割【ポーランドぶんかつ】

ロシア女帝エカチェリナ2世は1762年寵臣(ちょうしん)スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキをポーランド国王に擁立。1772年プロイセン,オーストリアはロシアのポーランド干渉の増大を恐れ,ロシアを誘って各国の近接地を合併(第1次分割)。1793年ロシアとプロイセンは領域を拡大(第2次分割)。1795年3国で第3次分割を行い,ポーランドは滅亡した。この間コシチューシュコらの指導でポーランド国民の武装抵抗もみられたが,効を奏さなかった。
→関連項目ウクライナフリードリヒ・ウィルヘルム[2世]ベラルーシポドリエポーランドポーランド回廊ラトビアリトアニア

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポーランド分割」の意味・わかりやすい解説

ポーランド分割
ポーランドぶんかつ
Partitions of Poland

18世紀後半,プロシア,ロシア,オーストリアの3隣接列強による3次にわたるポーランドの分割。 (1) 第1次分割 (1772.8.5.)  親ロシア的なポーランド王スタニスワフ2世アウグスト・ポニャトフスキに反抗したバール連盟に対するロシア軍の武力介入が直接的な契機で,第1次露土戦争 (68~74) でオスマン帝国を圧倒しつつ,その勢力を黒海沿岸に拡大したロシアをめぐり,ロシアとオーストリアとの関係が国際的戦争の危機をはらむにいたり,プロシアの主唱で実現をみた。プロシアはグダニスクを除く西プロシアを,ロシアは白ロシアとドニエプル川以東を,オーストリアはマウォポルスカとガリチア両地方を獲得。 (2) 第2次分割 (93.1.23.)  国家改革の成果として 1791年ポーランド議会で成立をみた『五月三日憲法』に反対した保守派のタルゴウィツァ連盟と,それに呼応したロシア軍の介入と平行し,フランス革命の動向に忙殺されていたオーストリアを除き,ロシアとプロシア2列強間で強行された。ロシアはリトアニア (リトワ) ,西部ウクライナを,プロシアはグダニスクと大ポーランド地方を獲得,併合した。 (3) 第3次分割 (95.10.24.)   94年の T.コシチューシコ蜂起と国土防衛戦の敗北後,オーストリアの推進で,これに軍事介入した3列強により遂行された。この結果,72年総面積約 73万 km2,人口約 1100万を数えたポーランドは,第1次世界大戦時の独立回復までの約1世紀半プロシアに 20%の領土と 23%の人口を,ロシアには 62%と 45%,オーストリアには 18%と 32%をそれぞれ分割,支配されるにいたった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ポーランド分割」の解説

ポーランド分割(ポーランドぶんかつ)
Rozbiory Polski

ロシア,プロイセン,オーストリアが1772年,93年,95年にポーランドを分割し,滅亡させた事件。シュラフタ共和政が無秩序化したポーランド‐リトアニアの合同国家は,18世紀にはロシアの保護下にあった。ロシアは,オスマン帝国との戦いのために,ポーランドに多少の改革を促そうとしたが,その政策が内部からの抵抗にあい挫折したことが分割を惹起した。

①〔第1次〕シュラフタが1768年に結成したバール連盟やオスマンと戦うロシアの窮状をとらえてプロイセンが仕組んだ。プロイセンはグダンスクを除く西プロイセン,ロシアはリヴォニアの一部とベラルーシの東部,オーストリアはガリツィアを獲得。

②〔第2次〕ロシア‐トルコ戦争の最中,ポーランドの四年議会(1788~92年)がロシアの意に反して主権の確立と近代化への改革をめざしたため,1792年にロシアとの戦争に至り,またプロイセンがフランスとの戦いを続ける代償として分割を要求。ロシアはベラルーシの中央部とウクライナ,プロイセンは西部ポーランドを併合。オーストリアは不参加。

③〔第3次〕コシチューシコ蜂起の敗北が契機となり,ポーランド国家は消滅した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ポーランド分割」の解説

ポーランド分割
ポーランドぶんかつ

18世紀末にプロイセン・オーストリア・ロシア3国により,3回にわたって行われたポーランド領の分割事件
【第1回】1772年,プロイセン(フリードリヒ2世)・オーストリア(マリア=テレジア)・ロシア(エカチェリーナ2世)により分割され,国土の4分の1を失った。
【第2回】1793年,ロシア・プロイセンにより分割されたが,オーストリアはフランス革命のために参加できなかった。
【第3回】1795年,コシューシコらポーランド人の反抗に乗じて3国は残る国土を分割し,ポーランドは第一次世界大戦後まで独立国としては史上から姿を消した。

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