ミュンヘン(英語表記)München

デジタル大辞泉 「ミュンヘン」の意味・読み・例文・類語

ミュンヘン(München)

ドイツ南部の商工業都市。バイエルン州の州都。交通の要衝にあり、南ドイツの経済・文化の中心地。16世紀以来、バイエルン公国の首都として繁栄。光学・精密機械などの工業のほか、ビール醸造も盛ん。人口、行政区133万(2008)。

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精選版 日本国語大辞典 「ミュンヘン」の意味・読み・例文・類語

ミュンヘン

  1. ( München ) ドイツ南東部の商工業都市。イザール川の両岸にまたがる。バイエルン州の州都。一一五八年ハインリヒ獅子公が建設。一八〇六年バイエルン王国の首都となった。第一次世界大戦後は革命運動の中心地となり、ナチス運動の発祥地ともなった。国立劇場国立博物館などがある。ビール醸造・光学機械工業などが盛ん。

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改訂新版 世界大百科事典 「ミュンヘン」の意味・わかりやすい解説

ミュンヘン
München

ドイツの南東部を構成するバイエルン州の州都。面積310.39km2。人口は123万(2002)で,ベルリン,ハンブルクに次ぐ。南ドイツの経済・文化の一大中心地であるとともに,国際空港をもつドイツ最大の観光都市。1972年第20回夏季オリンピックが開催された。南のアルプス山地と北のドナウ川の間に広がる高原地帯のほぼ中央に位置し,アルプスに発するイーザル川が市を南南西から北北東へと貫流する。砂礫から成る台地上に発達し,市の南方には村々が点在する森林が広がり,北方は今日ではほとんど開拓された,かつての沼沢地に連なる。標高は市域南端の580mから北端の480mにわたり,都心で520m。気候は西欧の海洋性気候と東欧の大陸性気候の中間型で,アルプス山地の影響も受け,降水量年910mm,年平均気温7.9℃。最高気温34℃,最低気温-20℃の記録をもつ。11~12月は霧がちで,2~3月は雪が多いが,1月のフェーンのときはアルプスの山並みがくっきり見える。札幌と姉妹都市。

ミュンヘンの基が置かれたイーザル左岸の台地は,元来アルプス北縁のテーゲルンゼー修道院に属していたといわれ,ミュンヘンの名も〈修道士〉を意味するメンヘンMönchenに由来する。1158年,バイエルン大公ハインリヒ獅子公は,ライヘンハルからアウクスブルクに通じる〈塩の道〉のイーザル川にかかる橋を,フライジング司教支配下のフェーリングから5km上流のこの地に実力で移した。関所,市場,貨幣鋳造所も同時に移され,70年ころには市壁も築かれて,1214年には正式に〈都市〉とされた。しかし,市が40年に大公ウィッテルスバハ家の支配に帰した後も,フライジング司教は関税などの諸収入の分け前を保障され(1803まで),こうして市は〈宗教的・世俗的〉な二重の性格を長く持ち続けるのである。

 1255年バイエルンが大公兄弟間の分割によって分国の時代にはいると,ミュンヘンには上バイエルンの大公の居館が置かれ,13世紀の末には,最初の市域(約0.17km2)を大きく取り巻く第2の市壁の建設が開始される(1315完成。東端のイーザル門は1337年)。こうして14世紀の初めには市域は当初の5倍強の0.9km2余へと拡大した。この頃上バイエルンの大公ルートウィヒがドイツ国王(1314),神聖ローマ皇帝(1328)となると,その城館(〈アルター・ホーフ〉)と近くのフランシスコ会修道院では,異端審問の手を逃れたイギリス出身のW.ofオッカムら錚々たる知識人がアビニョンの教皇に対抗して皇帝擁護の論陣を張った。帝国の色(黒,黄)がミュンヘン市の色となるのは,この皇帝のとき以降のことである。

 ミュンヘン発展の原動力は,〈塩の道〉,またいかだによるイーザル川の水運であった。皇帝ルートウィヒによってアウクスブルク方面に向かう塩がすべてミュンヘンを経由すべきものとされたことは,塩取引での同市の地位をいっそう強めた。上流地方の木材,木炭,石灰,石材や南チロルのブドウ酒を運ぶいかだも,ミュンヘンの河岸に逗留(とうりゆう)して3日間市民に積荷を開くべきものとされた。市の商人は,ベネチア,フランドル,またボヘミアにいたる香料,毛織物,絹などの遠隔地取引でも活躍したが,〈領邦都市〉ミュンヘンの重要な基盤を形成したのは,むしろ,上バイエルン一帯の村々からもたらされる穀物や家畜の市であり,また農民や市民の需要に応えるさまざまな手工業であった(14世紀半ばにはビール醸造所もすでに21を数えた。人口は1381年で約1万1000)。

 当時,市政は大公の任命する奉行と市参事会とによって行われたが,後者の中で決定的な力をもつ〈内部参事会〉は,富裕な大商人と土地所有者から成る〈都市貴族〉で構成されていた。この頃大商人たちは周辺の村々で土地の集積を進め,やがては城をも購入してその主となる者も出てくる。これに対して,市政の中心から排除されていた手工業者などの一般市民は,1397(1398)年〈300人の参事会〉を樹立し,数年間にわたって市政を支配したが,1403年敗北した。同年大公の参与下に都市貴族と一般市民の間に妥協が成立し,そのもとでミュンヘンは中世市民文化の高揚期を迎え,フラウエン教会,市庁舎(〈アルテス・ラートハウス〉。1470-80)など大規模な建築が相次いで行われた。1327年の大火ののち,わらや板ぶきの家から煉瓦や石造の家への転換がしだいに進み,大火は1434年を最後に後を絶ったが,中世の市民を繰返し苦しめたペストは,その後も何度かミュンヘンを襲った(1680まで)。火事やペストの際には,ときにユダヤ人が襲撃され,1442年のポグロムを機としてユダヤ人は市から閉め出された。

 16世紀初め,分国の再統合に伴いミュンヘンはバイエルン唯一の首都となった。有力市民をもとらえた宗教改革の動きは,1527年に9人の再洗礼派が火あぶりや溺死の刑に処せられるなど,大公権力による厳しい弾圧で抑えられた。領邦絶対主義の形成がこうした反宗教改革の動きとからみ合いつつ進む中で,市の塩取引に関する諸特権が大公権力に奪われる一方(1587年塩の専売制度が成立),王宮(レジデンツ)の拡充が進められ,市の経済は増大する宮廷の需要への依存をしだいに深めていく。その中で市民の衣服への身分制的統制が強められ,その土地所有もしだいに後退した。この時期を象徴するのが,イエズス会のために建てられたザンクト・ミヒャエル教会と学院(1585-91)であり,そして選帝侯マクシミリアン1世によるミュンヘンの要塞化(1638(1640)完成)と次代の選帝侯妃アデライデによるテアティーナー教会である。

 ミュンヘンはこの前後から〈ドイツのローマ〉と呼ばれるようになるが,1760年当時市内の教会,修道院の敷地は市域の1/5から1/4を占め,聖職者の数は約3万の人口中1000名に及んだ。イエズス会による大がかりな宗教劇の上演は市民に強い印象を与え,聖体祭の行列も,手工業者のさまざまなギルドや兄弟団から宮廷までが参加し,周辺28ヵ村もこれに協力する壮麗なものとなった。しかし,18世紀後半,啓蒙絶対主義の時代にはいると,修道士の数の制限や一連の祭日の廃止,またキリスト受難劇の禁止が進められた。次いでナポレオン戦争の中でバイエルンが近代国家への歩みを始めるとともに,1803年には,ミュンヘンだけで19にも上った修道院の国家への接収が行われた。他方,1801年にはプロテスタントの一商人に初めて市民権が与えられた。

 これより先,1791年,要塞施設と4.8kmに及ぶ市壁の撤去が開始された。それは,王宮の北東に連なるイーザル川左岸低地の〈イギリス庭園〉の開設(1789-92)とともに,14世紀以来の市域の枠を越えて進むミュンヘンの新しい発展の幕明けであった。1806年バイエルン王国の首都となったミュンヘンには,18年フライジングの司教座に代わって大司教座が置かれ,長くインゴルシュタットにあった大学(1472創立)もランツフートを経て26年ミュンヘンに移された。この時期,初代国王マクシミリアン1世と次代ルートウィヒ1世のもとで,オペラのための宮廷・国民劇場,ウィッテルスバハ家歴代の収集に成る絵画を収めるアルテ・ピナコテーク,古典古代の彫刻を蔵するグリュプトテークなど大規模な建設が進められ,王宮から北に延びる大学や国立図書館の建ち並ぶ〈ルートウィヒ通り〉とともに,〈第二のパリ〉への意欲を今日に示している。この頃ミュンヘンは〈イーザルのアテネ〉とうたわれた。

 その一方では,中世以来の長い伝統をもつ競馬が1810年テレージエン原で行われたのを機会に,その後毎年秋バイエルン農業協会の主催と国王の臨席のもとに〈オクトーバーフェスト〉が開催され,全バイエルン的な祭りへと発展した。野菜や酪農品の市場〈フィクトゥアーリエン市場〉がミュンヘン最古のザンクト・ペーター教会(11世紀前半創建)の裏手の現在の位置で新たな発展を開始するのもこの頃のことである。次いで,1839(1840)年のミュンヘン~アウクスブルク鉄道の開通以来首都として王国鉄道網の中心に据えられると,ミュンヘンはアウクスブルクを超えて南ドイツ最大の国際的物資集散地へと発展する(主要な貿易品は穀物,木材,家畜,果物,野菜など)。それに伴って銀行や保険会社の発達も著しかった。ミュンヘンのビールが世界的名声をかちとるのもこの頃以降のことである。しかし,〈ガラス宮殿〉(1931焼失)での工業博覧会(1854)や電気博覧会(1882),工科大学の設立(1868),そして世界的な科学技術博物館〈ドイツ博物館〉の建設(1903)にもかかわらず,ミュンヘンでは大工業の発展はそれほどみられず,陶磁器,家具などの工芸,印刷,既製服といった宮廷都市の伝統に根ざす優れた品質の多彩な中小企業が顕著な発達を遂げた。

 市の人口は,ルートウィヒ1世に寵愛された踊り子ローラ・モンテスの物語に始まる1848-49年の革命の頃には9万に満たなかったが,ドイツ帝国の成立した71年には,54年のイーザル右岸3ヵ村の編入以降進められた周辺地域の市域への編入もあわせて17万(35.5km2)に上り,さらに1910年には60万(88.7km2)へと飛躍的な発展を遂げる(ワーグナーの後援者ルートウィヒ2世の生まれた離宮のあるニュンフェンブルクの編入は1899年)。19世紀の末以降市の南部から東部にかけてイーザル川をはさんで建てられた薄暗いアパート群は,工場労働者や職人あるいは奉公人等々としてミュンヘンに流入した人々の厳しい住宅事情を物語っている。そして,市の北西部にはいくつもの兵営が建ち並んでいた。

 一方この時期,都心から北部のシュワービング(1890編入)にかけて,〈ミュンヘンは輝いていた〉(トーマス・マン)。例えば,カンディンスキーら表現主義芸術家のグループ〈ブラウエ・ライター〉,〈ユーゲントシュティール〉,L.トーマらの風刺誌《ジンプリツィシムス》等々。カフェーやカバレットには文士,芸術家や芸術家志望の若者またボヘミアンたちがたむろしており,オーストリアから来たヒトラーもそうした若者の一人であった。第1次大戦とともに,ミュンヘンにも一連の大工場が設立される。ミュンヘンの革命運動は,戦争の長期化に疲れ食糧不足やインフレに苦しんだ労働者,兵士,職人,サラリーマン,そしてK.アイスナー,G.ランダウアーら社会主義的文士たちの合作であった。これにガンドルファー兄弟ら農村の人々も加わったところに,ドイツ革命の中でのユニークな特色があった。レーテ共和国(レーテ運動)の崩壊後バイエルンでは右翼勢力が強力となり,23年11月にはヒトラーのミュンヘン一揆が起こっている。文化面でも〈民主的・世界都市的〉なベルリンに対してミュンヘンの〈文化保守的役割〉が強調され,その中でミュンヘンは〈地方都市〉の性格を強めた。しかし人口はさらに増加を続け,39年には約83万に達する。

 ナチスの第三帝国のもと〈運動の首都〉と呼ばれたミュンヘンでは,今日の〈ナチズム犠牲者広場〉にあったゲシュタポ本部から数多くの労働者や市民が市北西方のダッハウDachauにある強制収容所に送られた。イギリス,ドイツ,フランス,イタリア4国首脳のミュンヘン会談が行われた38年には,ユダヤ教徒のシナゴーグが焼かれ,またプロテスタントのザンクト・マテウス教会が解体された。ミュンヘン大学前の〈ショル兄妹広場〉〈フーバー教授広場〉の名は,第2次大戦中の白バラ抵抗運動に由来する。

 1940年から45年まで71回にわたった空襲の結果,市の半分近く(旧市街では90%)が破壊された(歴史的な建造物の多くはのち再建)。しかし,東西の冷戦(〈鉄のカーテン〉)によってニュルンベルクが相対的に停滞を余儀なくされたこと,またEECの成立によって南欧・東南欧への門としてのミュンヘンの役割が高まったことは,同市がバイエルン最大の工業都市へと躍進する跳躍台となった(主要な産業は電機,機械,精密機器,自動車,航空機,光学,化学など)。しかし,戦後の〈個人住宅〉と小規模分散型のアパートから密度の濃い集合住宅へと住宅建設の重点が移行したことは,57年に100万の大台を超え〈100万人の村〉とも呼ばれた大都市ミュンヘンの直面する苦悩を物語っている。そして,南欧や東南欧からの出稼ぎ労働者〈ガストアルバイター〉が厳しい労働(工場労働のほか看護婦勤務や町の清掃など)に従事し,〈世界に開かれた〉〈心地よい〉このミュンヘンを底辺で支えている。
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15世紀後半教区教会として造営されたフラウエン教会(1466-92)は,中世都市ミュンヘンの記念碑である(1821年以降大司教区の司教座聖堂となる)。3廊式の等高式バシリカ(ハレンキルヘ)で,末期ゴシック様式の煉瓦建築である。西側双塔の高さは99m。ザンクト・ミヒャエル教会はドイツ後期ルネサンスの重要な建築で,1583-97年ズストリスF.Sustrisらによってイエズス会のため建てられ,南ドイツにおける反宗教改革期の宗教建築の手本とされた。ルネサンスとバロックの様式を統合するテアティーナー教会(別称ザンクト・カエタン)は,1663-88年に十字形のプラン上に円蓋(ドーム)を載せる形式で造営された。その正面は約100年後F.キュビエによって完成された。アザム兄弟によって造営されたため〈アザム教会〉の名で知られるバロック建築,ザンクト・ヨハン・ネポームク教会は,1734-46年の建造である。内部の塑像装飾や天井フレスコ画はバイエルン末期バロックの傑作である。

 ウィッテルスバハ家の王宮(レジデンツ)は世俗建築の代表作。王宮は長年月にわたって造営されてきた美術館や祝祭堂や劇場などの一大複合建築群であるが,大別すれば,17世紀初頭のマクシミリアン1世時代に建造された皇帝宮や西側正面部などの末期ルネサンス様式の部分と19世紀ルートウィヒ1世時代に造営された祝祭堂や王の館などの擬古典主義様式の部分とからなる。絵画館アルテ・ピナコテークもこの王家の収集品から始まったもので,ヨーロッパ絵画の一大収集である。このほかにノイエ・ピナコテーク,バイエルン国立博物館,彫刻館グリュプトテークなどの美術館,博物館がある。また市立美術館(レンバハハウスLenbachhaus)では,20世紀初頭ミュンヘンで活躍した〈ブラウエ・ライター〉の指導者カンディンスキーの作品を多数見ることができる。
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百科事典マイペディア 「ミュンヘン」の意味・わかりやすい解説

ミュンヘン

ドイツ南部,バイエルン州の州都。ドナウ支流,イーザル川に臨み,南ドイツの政治・経済・文化の一大中心。電機・機械・車両・繊維・ビール醸造工業などが行われる。大学(1472年創立,1826年同市に移転),工科大学(1868年創立),マックス・プランク研究所,ドイツ博物館,ピナコテーク(ミュンヘン・ピナコテーク),15世紀の聖母教会,17世紀のニュンフェンブルク宮などがある。第20回オリンピック大会(1972年)の開催地。 13世紀からウィッテルスバハ家所領の商業都市。1505年以来バイエルン公国首都。19世紀ルートウィヒ1世,マクシミリアン2世治下に発展,カンディンスキーら表現主義芸術家によるグループ〈ブラウエ・ライター〉に代表される芸術運動も盛んだった。1923年ヒトラーによるミュンヘン一揆が起こされ,ナチス支配下で多くの人が犠牲となった。また,第2次大戦中は激しい空襲を受け,市の半分近くが破壊された。その後,歴史的建造物の多くは再建された。138万8308人(2012)。
→関連項目バイエルンミュンヘンオリンピック(1972年)

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デジタル大辞泉プラス 「ミュンヘン」の解説

ミュンヘン

2005年製作のアメリカ映画。原題《Munich》。監督:スティーブン・スピルバーグ、出演:エリック・バナ、ダニエル・クレイグ、キアラン・ハインズ、マチュー・カソビッツほか。第78回米国アカデミー賞作品賞ノミネート。

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