1906年12月,東インドのダッカで結成されたムスリムの政治組織。正式には全インド・ムスリム連盟。19世紀末ごろから,インド国民会議派はイギリスに対して自治・代議制についての要求を高めたが,これに対して,ムスリム間にヒンドゥー優位との不安が高まり始めた。こうしたムスリムの不安を代弁していたのが,サイイド・アフマド・ハーンであった。1905年のベンガル分割令に対する反対運動の中でアリーガル大学を中心としてムスリム独自の政党設立が試みられた。そうした政党結成に向けての運動の中で06年10月,大実業家のアーガー・ハーン3世を中心とするムスリム代表派遣団はイギリスの新総督ミントー(在任1905-10)と会見,ムスリムの政治的権利を認めるように訴えた。総督はイギリス本国の分割統治の方針に基づき,国民会議派とは別のムスリム独自の政治的要求に好意的態度を示し,同年12月にダッカで連盟の創立大会が開かれたのである。
創立当初連盟の常任議長には前述のアーガー・ハーンが選出されたが,当時の指導者たちは連合州,ベンガル,ボンベイなどの大地主や実業家で,ムスリム上層の保守的特権層がその中心を占めていた。連盟はムスリムの政治的権利と利益を守るために,インド政庁側に請願を繰り返す代表団にすぎなかったのである。
1919年からの数年は,ヒラーファト運動にみられるように,一般ムスリムの間にかつてないほどの反英運動が高まった時期である。しかし,それにもかかわらず35年統治法の時期まで連盟員数はほとんど増加せず,ムスリム一般大衆をその基盤として獲得するにはいたらなかった(1927年連盟員数1330人)。35年のインド統治法のもとでの最初の州議会議員選挙(1937)でも連盟は不振を極めている。連盟が初めて政党組織として拡大するのは,37年10月のラクナウ大会以降のことである。この大会でジンナーは国民会議派の政策をヒンドゥー支配だとして激しく非難し,ムスリム独自の政権を目指す姿勢を打ち出し,同時に大衆化路線による組織の拡大を決定,その後,連盟員数は急速に増加していった。第2次世界大戦中の40年3月,ラホール大会でジンナーはヒンドゥーとムスリムの2民族論を打ち出し,ムスリムのための分離独立国家を主張した。この時の決議が後にパキスタン決議と呼ばれるものである。しかし,この時の決議では,〈パキスタン〉はなんら明示されておらず,46年4月のデリーでの連盟議員総会で初めて明確に述べられた。47年8月14日にパキスタンが,翌日インドが分離独立した。独立後のパキスタンの制憲議会では,連盟が絶対多数を占め,国家元首である総督ジンナーと中央政府首相リヤーカト・アリー・ハーンの体制下で,つかの間の安定した状態にあった。しかし,ジンナーの死(1948)後,アリー・ハーンは暗殺され(1951),連盟内部の対立が現れ始めた。58年にアユーブ・ハーンがクーデタで大統領になるまで,中央政府の政権は短期間にめまぐるしく交代した。この間,連盟は中央議会では,国民を指導する力を失って分解し,西パキスタンの州段階においてのみ指導力をもつ地方政党となった。
執筆者:小名 康之
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…民族運動の主導権争いはこうして共産党など左翼勢力に不利な形で決着した。 もうひとつは,ムスリム(イスラム教徒)を代表する政党であるムスリム連盟が戦時中に非常にその力を伸ばして国民会議派とならぶ位置を得たことである。連盟はムスリムが多数を占めるパキスタンという名称の国家をインドのムスリム多住地域につくること,つまり植民地インドがインドとパキスタンの二つに分離して独立することを要求するようになったから,連盟の勢力拡大は事態がインドの分割に向けて大きく進んだことを意味した。…
…一方インド人の独立運動は国民会議派が主導して進められ,ガンディーの説くサティヤーグラハという非暴力抵抗が運動の精神となったが,20年代以後には社会主義が叫ばれ,また農民運動と労働運動が独立運動の要素となった。 第2次世界大戦後,イギリス側は行政・軍事の面でインドを統治する実力を失い,高等文官を供給することができず,あらゆる官職のインド人化が急速に進んだが,パキスタンの分離を叫ぶムスリム連盟はムスリムを代表する政党と見なされ,国民会議派と激しく対立したため,インド独立は遅れた。46年には内閣使節団構想に基づいてインド人の中間政府と憲法制定会議が発足したが,後者にはムスリム連盟は参加せず,47年にインド,パキスタン2国が自治領として独立した。…
…そして初め国民会議派に所属して活動していた社会主義者や共産主義者たちは,45‐47年にこれから離れ,それぞれ独自の政党へと結集していく。国民会議派は決して特定の宗教・宗派の成員のみから成るコミュナルな組織ではなく,すべての住民・領域を統合した形でインドをイギリスから独立させることを望んだが,1930年代後半から急速にムスリム大衆を把握し,ムスリム多住地域の分離を強調するM.A.ジンナー指導下のムスリム連盟との長い交渉を成功させ得ず,結局は現実的な立場からインドの分割を容認することになる。 47年の分離独立後,国民会議派は中央およびすべての州の政権を掌握し,ネルーとパテールの共同による卓越した指導力で安定した政府を樹立し,また外交面では米ソいずれにも偏らない非同盟政策を推進することで新興の第三世界諸国の中での地位を高めた。…
…これに対してはガンディーの断食によって一定の手直しが加えられたものの,基本的にはこの選挙制度は35年統治法の中に成文化され,これが47年8月のインド・パキスタン分離独立への一つの法的な水路を準備したともいえる。その過程で,ジンナーの指導下でイギリスの分断政策を利用しつつ組織的拡大を遂げ,コミュナリズム思考の一つの帰結ともいうべき〈二民族論〉で理論武装したムスリム連盟(1906創立),一部の国民会議派指導部からの支持を受けつつ,ヒンドゥーの優位性を強調して〈アカンド・ヒンドゥスターン(不可分のインド)〉を掲げるヒンドゥー大連合(1915創設)や民族義勇団Rāṣhtrīy Swayansewak Sangh(RSS,1925創設)の活動が大衆のコミュナリズム感情をかきたてていった。また会議派自体にしても,ネルーはじめその指導部はインド人としての民族意識がインド社会に十分に浸透したと錯覚することで,コミュナリズムの問題に適切かつ果断に対処することができず,そのいっそうの深刻化を助けたとの指摘も無視できない。…
…
[政治史]
イギリス領インドにムスリムの独立国家を建設しようとする運動は,1930年にさかのぼることができる。この年のムスリム連盟の年次大会で,詩人・思想家イクバールは〈ムスリム国家〉構想を提唱,しかしその内容は不明確な点を含んでいた。40年,同連盟のラホール年次大会で,連盟議長ジンナーは,インドは文化,伝統をまったく異にするヒンドゥー,ムスリム二つの民族から構成されているという〈二民族論〉を打ち出し,これに基づき少数派のムスリムのための分離独立国家の樹立を主張,ラホール決議として採択された。…
※「ムスリム連盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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