ムハンマド(イスラム教の創唱者)(読み)むはんまど(英語表記)Muammad

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ムハンマド(イスラム教の創唱者)
むはんまど
Muammad
(570ころ―632)

イスラム教の創唱者。マホメットMahometともよばれるが、これは訛(なま)りである。

[中村廣治郎 2018年4月18日]

生い立ち

ムハンマドの前半生についてはあまり知られていない。西暦570年ころ、メッカのクライシュ人のハーシム一族の子として生まれた。父の名をアブドゥッラー‘Abdullah(546ころ―570)といい、母をアーミナAmina(?―576)とよんだ。ムハンマドが生まれたときには、父はすでにこの世にはなく、6歳のころには母とも死別して孤児となる。祖父のアブドゥル・ムッタリブ‘Abdul-Mualib(497ころ―578)に引き取られるが、この祖父も2年後に没し、叔父のアブー・ターリブAbū ālib(539ころ―619ころ)の手で養育される。後年、コーランなかで繰り返し孤児への心遣いが説かれるが、それは彼自身の孤児としての不幸な境遇と無関係ではないであろう。

 少年のころ、叔父とともに隊商に加わってシリアに行ったことがあるといわれるが、青年時代には叔父の取引を手伝ったり、他の商人の代理人の仕事をして生計をたてたことであろう。そのようななかで、あるとき、叔父の紹介でハディージャKhadija(565ころ―619/620)という富裕な寡婦の商人の仕事を手伝ったが、「正直者」(アミーン)とあだ名されたムハンマドの人柄が見込まれ、2人は結婚することになる。ムハンマドが25歳、ハディージャが40歳であったという。

 ムハンマドはようやく生活の安定を得て、幸福な生活を送ることになる。ただ、3男4女をもうけるが、不幸にして男児は夭逝(ようせい)してしまう。このころから、彼はメッカ郊外のヒラー山の洞窟(どうくつ)にしばしば籠(こも)り、祈祷(きとう)や瞑想(めいそう)にふけるようになる。その理由については知る由もないが、商業都市として繁栄するメッカ社会のさまざまな矛盾や部族的悪弊に対して、なにか満たされないものを感じていたのかもしれない。いずれにしても、610年のある夜、いつものようにヒラー山の洞窟に籠っているとき、突然、異常な体験をした。天使が現れ、巻物で彼ののどくびを押さえ付けるようにして、「誦(よ)め」といった。これが神(アッラー)からの最初の啓示であったといわれる(コーラン96章1~5節)。混乱と苦悩ののち、やがて彼は預言者としての自覚を得て、身の回りの人々に教えを説き始める。そして数年後には公に宣教を開始する。

[中村廣治郎 2018年4月18日]

宣教活動と迫害

唯一神アッラーへの信仰、終末・復活と審判、天国と地獄、信仰と善行による救いと不信仰者への罰の教えは、メッカの多神教と現世的な商人ないしは部族倫理とは相いれず、大方のメッカの人々の嘲笑(ちょうしょう)と反感を買い、それはやがて迫害へと変わる。615年、ついに彼は対岸のアビシニアエチオピア)に約80名の信徒を避難させた。そのようななかで619年には、ハーシム一族の長としてムハンマドを庇護(ひご)してきた叔父と、心の支えであった妻ハディージャを相次いで亡くし、彼の宣教活動はクライシュ人の迫害の前についえ去るかにみえた。

 しかし、翌620年、異教のパンテオンカーバ神殿への巡礼にメッカを訪れたヤスリブ(後のメディナ)の住人がムハンマドの説教を聞き、感銘を受けた。当時、メディナはユダヤ教徒の部族のほか、アウス人とハズラジュ人という二つのアラブ系部族があり、両者が長年、対立・抗争を続けていた。ムハンマドの教えを聞いた巡礼者たちは、彼を調停者として迎えようとしたのである。彼もこれを宣教のための好機ととらえ、周到な準備ののち、信徒とともにひそかにメッカを脱出し、無事、メディナに到着した(622年9月24日)。これがヒジュラ(遷行・移住)である。のちにこの年がイスラム暦の元年とされる。ここに、「移住者」(ムハージルーン)約70名、メディナの「援助者」(アンサール)約80名からなり、ともにムハンマドを預言者と認める小さなイスラム共同体(ウンマ)が成立したのである。

[中村廣治郎 2018年4月18日]

メディナにおけるムハンマド

しかし、ウンマの前途がこれで約束されたわけではない。ムハンマドは預言者として受け入れられたとはいえ、あくまでも調停者であり、調停に失敗すれば、彼の預言者としての地位も水泡に帰してしまう。しかもメディナ社会には、ユダヤ教徒をはじめ、彼の指導を快く思っていない人々が多くいた。そのうえ、メッカの大商人たちにとっては、メディナのイスラム教徒の存在は、シリア地方への交易ルートを脅かすものとして、容認しがたいものであった。このような状況のなかで、さまざまな困難や障害を克服し、その使命を完遂するには、単に宗教的指導者としてだけではなく、優れた政治的指導者としての能力が要請される。

 まず、624年、メディナの「移住者」に自活の道を開き、同時にメッカ側に経済的打撃を与えるために、シリアから帰途のメッカの隊商を襲撃した。メッカ側は増援部隊を送ったが、メッカとメディナの中間点バドルで撃破された。さらに、625年のウフドの戦いに続いて、627年のハンダクの戦いでは、メッカ側のメディナ包囲を完全に失敗に終わらせた。その間、軍事的勝利を利用してユダヤ教徒をはじめとする不満分子を沈黙させ、あるいは排除し、他方では、外交交渉によって周辺アラブ諸部族を改宗させ、あるいは同盟を結んで、内外における自己の政治的立場を強化していった。これが、彼の人徳と相まってその宗教的権威をいっそう高めた。こうして630年には、メッカの無血征服に成功し、カーバ神殿に安置されていた多数の偶像を破壊してこれを清めた。それ以前にすでにカーバ神殿は、「ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもない」、純粋な一神教徒アブラハムの建立になる「アッラーの館(やかた)」として、思想的にはイスラム化されていたのである。

 このようにアラブ諸部族のなかでも有力なクライシュ人がムハンマドの権威に服することになって、彼の威令はアラビア半島全域に広まり、多くの部族がメディナに使節を送って盟約を結び、あるいはイスラムの信仰を受け入れ、喜捨を出した。とくに631年は、このような外交使節が多く到来した年で、「遣使の年」といわれる。しかし、ムハンマドは翌年、メッカ巡礼を終えてメディナに帰ってから、ほどなくして世を去る。

[中村廣治郎 2018年4月18日]

ムハンマドの特質

彼の死後、その後継者問題やアラブ諸部族の離反によって、ウンマは一時崩壊の危機に直面したが、初代カリフに選出されたアブー・バクル(在位632~634)の努力によって半島は再統一され、やがてムスリム(イスラム教徒)軍は半島を出て東西にその版図を拡大していく。こうしてムハンマドは神の使徒・預言者として神からの啓示を伝えただけでなく、その教えを現実の社会のなかに根づかせることに成功した。この意味で彼は、宗教者であっただけではなく、また優れた組織者でもあった。ここに彼の特異な性格がある。

 イスラム教では、神以外のいっさいのものは、その被造物として神と峻別(しゅんべつ)され、それらの神格化は厳しく否定される。預言者とて同様である。コーランに繰り返し強調されているように、ムハンマドはあくまでも「1人の警告者」(53章56節)、「ただの人間、1人の使徒」(17章93節)にすぎない。しかし、たとえそうではあっても、人をとらえて離さない彼の人間的魅力や情愛がなければ、指導者としてあれほどの大事業を成し遂げえなかったであろう。

 ムハンマドはこのように人間として生まれ、人間として世を去った。とはいえ、彼に直接接したことのある人、彼を預言者として敬愛する信徒にとって、彼は「ただの人間」のままではありえなかった。彼はさまざまの時代のさまざまの人間にとって、理想的なムスリム、信徒の鑑(かがみ)であっただけではなく、超人的存在でもあった。庶民にとっては奇跡の執行者であったし、法学者にとっては彼への服従は神への服従と同一視され、その言行はコーランに次ぐ神的権威をもってきた。スーフィー(イスラム神秘主義者)にとっては彼は理想のスーフィーであり、彼の本質は宇宙創造に先だつ神の先在的ロゴスとみなされ、哲学者は理想の哲人を、モダニストは最高の道徳的完成者をそこにみいだした。このようにムハンマドは、時代を通じてつねにムスリムたちの信仰を鼓舞してきたが、彼自身が神格化されなかったことは驚くべきことである。

[中村廣治郎 2018年4月18日]

『嶋田襄平著『預言者マホメット』(1966・角川書店)』『モンゴメリー・ワット著、牧野信也・久保儀明訳『ムハンマド――預言者と政治家』(1970/新装版・2002・みすず書房)』『牧野信也著『人類の知的遺産17 マホメット』(1979・講談社)』『後藤晃著『ムハンマドとアラブ』(1980・東京新聞出版局)』『藤本勝次著『マホメット――ユダヤ人との抗争』(中公新書)』

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