フランスの啓蒙(けいもう)思想家。1月18日ボルドー近郊のラ・ブレードの城に生まれる。オラトリオ会経営のジュイーの学院に学び、ついでボルドー大学で法律を修めて、弁護士となる。1709年パリに出て、フォルトネルをはじめ学者、文人と交わったが、父の死後その跡を継いでボルドー高等法院評定官となる。さらに7歳のとき母の遺産として相続したラ・ブレード男爵領に加えて、1716年叔父の遺産モンテスキュー男爵領とボルドー高等法院院長の地位を継承する。しかし領地はそれほど大きなものではなく、1726年には院長の官職を賃貸しなければならなかったという。またこのころボルドー・アカデミーの会員として自然科学とくに博物学に関するいくつかの報告を行っている。
1721年、東洋人の目を借りて当時のフランスの社会と政治とを批判した書簡体の風刺小説『ペルシア人の手紙』を匿名で出版する。そのなかのトログロディト人の物語(第11~14書簡)は、美徳と自由の結合した彼自身のユートピアを描いたものとして有名である。ほかにモンテスキューの文学作品としては『グニードの神殿』(1725)、『アルザスとイスメニー』(1783)などがある。『ペルシア人の手紙』によって彼は一躍パリ社交界の寵児(ちょうじ)となり、1727年アカデミー・フランセーズの会員に迎えられた。しかし彼は生涯の大作『法の精神』の準備のため、1728年4月ヨーロッパ旅行に出発し、1731年5月まで各国の社会事情を詳細に視察する。とくにイギリスの政治制度に深い関心を寄せ、『法の精神』では「政治的自由をその国家構造の直接の目的とする」として、これを礼賛している。しかし同時に、彼は当時のウォルポール内閣のもとでの金権政治の実態に無知だったのではない。帰国後まず『ローマ人盛衰原因論』(1734)を発表。そこで彼は大胆に「歴史を支配するのは運命ではない」と宣言する。つまり、自然科学的因果法則を歴史現象に適用し、一般的原因と特殊原因との多彩な組合せに基づいて、歴史的事実を統一的に説明することができるとした。これによって、モンテスキューは初めて歴史を摂理から解放したのである。
その後、絶えずパリのサロンとラ・ブレードの城とを往復しながら主著の完成に努める。彼自身「20年にわたる労作」といった『法の精神』(1748)は、刊行18か月で21版を重ねるほどの大成功を収めた。しかし批判も激しく、彼は『法の精神の擁護』(1750)によって反論したが、この著作は1751年法王庁の「禁書目録」に加えられた。『法の精神』は、とくに第2、3編における理念型としての三政体論(共和制、君主制、専制)および第11編第6章のいわゆる三権分立論によって有名であるが、後者についていえば、モンテスキューの真に意図するところは、執行権=君主、立法権=下院(人民)、司法権=上院(貴族)の三権力機構の勢力均衡にあったと考えられる。晩年は視力の減退にもかかわらず新しい著作を企て、また『百科全書』のため「趣味論」を執筆したが、これは未完に終わった。1755年2月10日パリで死去した。
[坂井昭宏 2015年6月17日]
『井上幸治編『世界の名著34 モンテスキュー』(1980・中央公論社)』▽『L・アルチュセール著、西川長夫・阪上孝訳『政治と歴史』(1974/新訂版・2004・紀伊國屋書店)』▽『福鎌忠恕著『モンテスキュー』全3巻(1975・酒井書店)』▽『E・デュルケーム著、小関藤一郎・川喜多喬訳『モンテスキューとルソー』(1975・法政大学出版局)』
フランスの啓蒙思想家。フランス革命のちょうど100年前,ボルドーに近い男爵領ラ・ブレードを領有するスゴンダ家の長男として生まれた。オラトリオ会が経営するジュイイの学園で古典や歴史を学んだのち,ボルドー大学で法学士となりパリに遊学。1713年に父が死んで帰郷,16年には父方の伯父の遺言によって,売買や相続の対象とされていたボルドー高等法院副院長の職とともに,男爵領モンテスキューを取得し,その名を後世に残すこととなる。
もともと法律の技術的知識には興味がなかったモンテスキューは,高等法院に在職中も文学から自然科学に至る幅広い研究を続けてボルドーのアカデミーの発展に貢献し,やがて彼を一躍有名にした《ペルシア人の手紙》(1721)を刊行する(当時の通例として匿名であったが著者名は知られていた)。これはヨーロッパを旅行中のペルシア人が見聞を手紙で故国に書き送るという形式の作品で,留守にしてきた後宮の話を織りまぜながら,絶対王政末期のフランスにおける不条理な思想や政治などを軽妙に風刺している。当時の異国趣味にも合致して〈パンのように売れた〉といわれるが,高位の裁判官でありながら異邦人になりすまし,自分が慣れ親しんだ社会を相対化して批判的に考察するというモンテスキューの姿勢は,その後の思想的展開を予告するものとして重要な意味をもつ。22年以後,モンテスキューは主としてパリで生活してランベール夫人などのサロンに出入りし,26年に高等法院の職を手放してからは文筆活動に専念する。アカデミー・フランセーズの会員に選出された28年から3年にわたってイギリスその他の諸国を遍歴,帰国後はラ・ブレードとパリの間をときに往復しながら,膨大な資料に基づいて《法の精神》(1748)の著述にとりかかった。その一部ともいえる《ローマ人盛衰原因論》(1734)の刊行からなお十数年を費やして《法の精神》を完成したときには,ほとんど視力を失っていた。
モンテスキューが把握しようとした〈法の精神〉とは,法と社会の自然的・精神的な諸条件との関係の総体であり,こうして,法的な事象を経験科学的認識の対象とし,古今東西の歴史をその素材としたところに,伝統的な自然法論やルソーの〈一般意志〉とは異なるモンテスキューの思想の独創性がある。《ペルシア人の手紙》以来モンテスキューが模索してきた社会改革のための現実的で効果的な方策はこのような認識によって基礎づけられ,政治的自由に関しては三権分立制(権力分立)が提唱されることとなる。これが自由の確保に有効な機能を果たしてきたことは周知のところであるが,モンテスキューの思想の現代的意義は,その思想を支えている学問的な姿勢と方法にも求められる。高度に複雑化した現代社会には,独善や独断とは無縁の社会科学的な認識がますます不可欠なものとして要請されるからである。
執筆者:上原 行雄
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1689~1755
フランスの思想家。1716年ボルドーの高等法院長となるが,もっぱら百般の学問に親しみ,25年には職を売り,ヨーロッパ各地を旅行後,領地ラ・ブレドで著述の生涯を送った。主著『ペルシア人の手紙』『法の精神』など。
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…それは,18世紀宮廷文化における新奇なものへの憧れやナポレオンのエジプト遠征(1798‐99)に際して見られたような異文明の遺産の略奪という形態が,オリエント文化の本質的理解の妨げになっているのかもしれない。文学においては,ガランによる《千夜一夜物語》の翻訳(1704‐17),モンテスキューの《ペルシア人の手紙》(1721),ボルテールの《マホメット》(1741)などがその早い例で,啓蒙主義的文明批評のにおいが強かったが,しだいにエキゾティシズムに傾いてゆく。ユゴーの《東方詩集Orientales》(1829),ラマルティーヌの《東方紀行》(1835)などがロマン主義文学者による代表例である。…
…こうして,17~18世紀のフランスの〈サロン〉に見られるように,身分の垣根を越えた知的ないし美的な社交生活のなかから,新しい自由思想の芽がはぐくまれていった。 地方自治や議会制の発展したイギリスでは,貴族ないしジェントリーが引き続き政治生活を指導したが,フランスをはじめ君主政が強化された国々においては,貴族は,モンテスキューのいわゆる〈中間権力〉として,思想的にしばしば〈自由〉の擁護者の役割を引き受け,市民的な啓蒙主義運動の一翼を担うこともあった。フランス革命における自由主義貴族の活躍もその表れであり,19世紀に入ってからも,ロマン主義の潮流のなかに,この伝統は受け継がれた。…
…自己および隣人の生命を保存すべきこと,また他人の生命,健康,自由,財産を侵害してはならないことを,理性の法としての自然法の基本的内容にほかならぬものとし,所有権をはじめとする自然権を擁護するかぎりにおいて社会契約による各人の権力の譲渡の上に成立する国家の権力の発動をみとめるという,近代民主主義社会の基本原理をうち立てたロックの考えは,この領域でも,啓蒙時代全般を通じる一つのスタンダードを定めることになった。フランスでは,モンテスキューが,各国の法と政治の大規模な比較にもとづいてあらためて三権分立の思想の基礎づけをこころみ,ドイツではトマジウスが自然法の考えの普及に大きな役割を果たした。なおモンテスキュー,ディドロらに典型的な例が見られるように,非西欧社会へのとらわれのない見方が一部に定着しつつあることも注目に値しよう。…
…生存競争,優勝劣敗による進化という社会進化的観念は,当時の知識人に中国は亡国の危機にさらされているという意識をよびおこし,桐城派古文の典雅な文章とあいまって,《天演論》は青年たちに暗誦されるほど歓迎され,彼の名を不朽のものにした。それ以後彼は,アダム・スミス《原富》(1902,《国富論》),ミル《群己権界論》(1903,《自由論》),ミル《穆勒(ぼくろく)名学》(1905,《論理学体系》),モンテスキュー《法意》(1904‐09,《法の精神》)など多くの翻訳を出版し,西欧近代の学術的成果を紹介した。しかし,辛亥革命(1911)以後は,しだいに伝統思想へ接近してゆき,袁世凱の帝制運動を助けるなど,かつての名声も地に落ち,1921年,五・四新文化運動のさなか,病没した。…
…大日本帝国憲法では,天皇が〈統治権ヲ総攬〉(4条)するという根本的なたてまえのもとで,天皇の立法権の行使を帝国議会が〈協賛〉(5条)し,行政については国務大臣が〈輔弼(ほひつ)〉(55条)し,司法権も〈天皇ノ名ニ於テ〉裁判所がおこなう(57条)という構造であったのと比べ,日本国憲法は三権分立の根本原理により忠実であるが,三権分立の骨格を前提としたうえで,国会を〈国権の最高機関〉(41条)として位置づける点で,近代憲法確立期の議会中心主義を継承すると同時に,司法権に法令違憲審査権を与える(81条)点で,現代憲法に共通する傾向をもあわせ示している。
[権力分立思想の系譜]
権力分立論には,古代ギリシアのヒッポダモスやアリストテレスの混合政体論にさかのぼる背景があるが,近代憲法の権力分立に大きな影響を及ぼしているのは,ロックとモンテスキューの思想である。ロックの《統治二論》(1689)は,生命・自由・所有物に対する固有の権利propertyを保全するために,各人が〈自然状態〉においてもっていた〈自然の権力〉を放棄して〈政治社会〉(〈市民社会〉)をつくりあげるのだという説明を前提とし,〈政治社会〉を形成した人民の意思による意識的な法制定作用として,〈立法〉というものを位置づける。…
… ロックの《人間知性論》は,人間の悟性的能力がすべて経験によって習得されたものであって,なんら生得的な能力によるものではないということを論証することを主題としたが,このことはまた,人間の社会生活における道徳的・実践的原理がなんらかのア・プリオリな超越的根拠から出てきたものでなく,人びとが経験を通じてお互いの利益になるように取り決めたものだという,《統治二論》の主題たる近代民主主義のテーゼとつながる。モンテスキューの《法の精神》は,この同じ問題を法思想・法制度の面から根拠づけた。両者はそれぞれ,近代における政治学と法律学を基礎づけるものとなった。…
… ルソーは《社会契約論》において,主権は不可分不可譲のものとして人民に帰属し,政体の区別は政府の形態の相違にすぎないとする。一方,伝統的政体論の組替えはモンテスキューによってもなされる。彼は政体を三つに分類し,民主制と貴族制とを共和制,王の権力が制度的制約の下にあるものを君主制として,専制政治から区別した。…
…西欧においては,古典古代の都市国家が政治社会の原型としてイメージされていたから,専制政治という語自体,非難の意味を強く含んでおり,祖国イタリア統一の目的達成のために,伝統的価値に拘束されない強力な君主の出現を望んだマキアベリや,社会契約によって成立した国家の意思を君主の意思に体現せしめたホッブズの思想は,専制政治の弁証として非難の対象とされた。絶対王政下にあって,モンテスキューは,政体を,民主制,君主制,専制政治の三つに分類し,専制政治を,ただ1人が,法もなく規範もなく,万事を自分の意思と恣意によって導くものと定義し,原理的に腐敗したものとして批判した。一方,啓蒙哲学者の一部は,人間の知的・精神的発展の推進者として君主の指導に期待し,啓蒙専制君主と呼ばれるロシアのエカチェリナ2世やプロイセンのフリードリヒ2世らは,〈公共の福祉〉をうたい,啓蒙主義とそれに伴う科学技術の発展を積極的に援助して,自国の強化を図った。…
…モンテスキューの書簡体小説。1721年刊。…
…このように,民主主義を統治の一形式ととらえ,しかもそれを否定的にしか評価しないという考え方は,その後近代にいたるまで,ヨーロッパ各国の統治構造が例外なく王政的ないし貴族制的であった事実と対応して,少なくとも18世紀末まで,ほとんど揺るぎのない共通の了解であった。たとえば,18世紀中ごろにD.ヒュームが,統治の基礎を無定見な人民の同意に求めることは,結局,専制への道を開くと論じ,またモンテスキューが,民主主義を作動させる原動力は人民の徳性にあると論じながら,しかもそうした徳性は少なくとも同時代には存在しないと判断したことなどは,いずれもこうした了解の例証にすぎない。今日みられるように,民主主義がプラスの価値として自明化したのは,19世紀中を通じて戦われた,それまで政治の世界から排除されてきた民衆による権力参加,または権力奪取の激烈な運動と,その帰結である20世紀前半における各国での普通選挙制実現以後のことである。…
…ルネサンス,宗教改革を経て絶対主義の時代にはいる過程で,フランスにおいては三部会が開かれなくなり,ドイツでは領邦ごとの国家形成が進められることになるが,イギリスにおいてはマグナ・カルタ以来の伝統をうけついで議会が発達をとげ,清教徒革命,名誉革命を経て,議院内閣制が成立していった。このようなイギリスの立憲君主制は絶対王政下のフランス思想界に影響を及ぼし,モンテスキューは《法の精神》において,君主制の本性を〈ただ1人が統治するが,確立され,制定された法に従う〉政体として,専制政治と区別した。彼は執行権を君主の権限としつつも,これとは独立した司法権,および議会のもつ立法権の存在を,自由の制度的保障と考えたのである。…
… なおキリスト教的史観はルネサンス以後完全に払拭されたわけではなく,ボシュエの《万国史論》は,私利と暴力の支配などさまざまなローマ没落原因を考察しながらも,なおアウグスティヌス的摂理史観を基幹としていた。啓蒙主義時代に入り,モンテスキューの《ローマ人盛衰原因論》は軍隊の力の増大と,元老院と衆愚に堕した人民の力の逆転に没落の主因を求めた。ボルテールはモンテスキューにも認められる反キリスト教立場をさらに強め,キリスト教公認に没落の原因をみた。…
※「モンテスキュー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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