リンカン(英語表記)Abraham Lincoln

改訂新版 世界大百科事典 「リンカン」の意味・わかりやすい解説

リンカン
Abraham Lincoln
生没年:1809-65

アメリカ合衆国第16代大統領。在職1861-65年。ケンタッキーの農民の子に生まれ,インディアナ,続いてイリノイに移り,1831年からニューセーラムに住んだ。雑貨店経営,測量技師,郵便局長などの職を経つつ法律を勉強して弁護士となり,37年州都スプリングフィールドに移って法律事務所を開いた。その間,1832年にブラック・ホーク戦争に志願してインディアン討伐に参加,34年にはホイッグ党員として州下院議員に当選して8年間務め,42年にはメアリー・トッドと結婚した。

 1846年連邦下院議員に選ばれたが,対メキシコ戦争に反対し,そのうえメキシコから獲得する領土に奴隷制を認めないという〈ウィルモット条項〉に賛成したため,選挙民の不評を買い,1期でワシントンを去らなければならなかった。しかし54年のカンザス・ネブラスカ法の成立とともに,同法に反対して政治活動を再開し,56年にはホイッグ党から共和党に移った。

 そして58年,イリノイ州連邦上院議員のいすを争って,民主党のS.A.ダグラスと7回にわたる公開討論会を開いた。リンカンの立場は,既存の奴隷州には干渉しないが,準州へのこれ以上の奴隷制拡大には反対する,というものであった。ちなみに,奴隷制をめぐって分裂する連邦の未来を憂えた〈分かれたる家は立つことあたわず〉という演説は同年の州党大会で行われたものである。この選挙で敗北したものの,彼は一躍全国に名を知られ,60年共和党は比較的穏健な彼を大統領候補に指名,リンカンは北部票の支持を得て当選した。

 しかし,リンカンの当選を南部奴隷制への攻撃とみた南部各州は次々に連邦を脱退し,61年2月アメリカ南部連合を結成した。彼は強くこれに反対し妥協せず,ここに南北戦争が始まった。〈私の最高の目的は連邦を救うことであって,奴隷制を救うことでも滅ぼすことでもない〉とする彼は,軍人によるかってな奴隷解放を厳禁した。しかし62年9月22日,軍司令官の権限で63年1月1日を期して占領地域の奴隷を解放する〈奴隷解放予備宣言〉を公布した。これは彼の指導力を批判しはじめた北部を結束させると同時に,イギリスの南部連合承認の動きを中止させたすぐれて政治的な行動であった。

 彼の政治手腕とU.S.グラント,W.T.シャーマン,P.H.シェリダン将軍らの軍事的活躍に助けられ,64年リンカンは大統領に再選される。65年3月4日の就任演説では,南北戦争の責任は南北両方にあると説き,〈何人に対しても悪意を抱かず,すべての人に慈愛をもって〉と,博愛と寛容の精神を訴えた。連邦維持を念願する彼の関心は,脱退した南部諸州の早期連邦復帰であり,南部に寛大な再建策を用意し,共和党急進派の厳しい再建策〈ウェード=デービス法案〉を拒否した。南部降伏直後の最後の演説で南部へ寛大であるように訴えたリンカンは,その2日後,65年4月14日,ワシントンD.C.のフォード劇場で観劇中,南部出身の俳優ブースJohn Wilkes Boothに撃たれ,翌日死亡した。

 リンカンは,合衆国の分裂を防いだ指導者,〈ゲティスバーグの演説〉にみられるようなアメリカ民主主義を体現する人物,最もすぐれた大統領として尊敬され評価されている。彼の死を悼んだホイットマンの《先ごろライラックが前庭に咲いたとき》(1866)をはじめ,サンドバーグの《エーブラハム・リンカン》全6巻(1926-39)など彼をテーマとした文学作品も多数あり,1922年には彼を記念するリンカン・メモリアルがワシントンD.C.に完成した。日本では,最初の国定教科書《高等小学修身書》(1904年使用開始)第2学年用で,〈勉学〉〈正直〉〈同情〉〈人身の自由〉の各項で描かれているように,〈丸太小屋からホワイト・ハウスへ〉を実現した立身出世の人,奴隷を解放した正義の人,あるいは南北戦争に勝利をおさめた直後に暗殺された悲劇の人として知られている。しかし,とくに子ども向きに描かれたリンカン像は多分に道徳化,神話化されたものが多い。
南北戦争
執筆者:

リンカン
Lincoln

イギリス,イングランド東部,リンカンシャー(州)中央西部にある商業都市で州都。ブリトン語ではリンドンLindon,ローマ時代にはリンドゥムLindumまたはリンドン・コロニアLindon coloniaと呼ばれた。人口10万4221(2001)。ウィザム川とティル川の合流点にあるケスタ上に位置し,ローマ時代からアーミン街道とフォス・ウェーの両ローマ道の交点にある交通・商業都市として発展した。現在は周辺農村の中心都市であると同時に,重機械,軽金属,自動車部品,ラジオ,食品などの工業も行われる。もとはブリトン人の集落があったが,ローマ時代に軍団・植民都市となって成長,デーン人の侵入時にも〈五都市〉のうちの一つであった。中世には羊毛・皮革の取引,ステンド・グラスの製造が盛んであり,また11世紀末以降,大聖堂が建設されてからは宗教都市としても栄えた。1086年にウィリアム1世が築いたノルマン風の城〈リンカン・カスル〉が残る。
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正称はセント・メアリーSaint Mary。初期イギリス・ゴシック様式建築の代表作である。1073年に起工されたノルマン期の建物を西正面に一部のこし,1192-1320年に再建された。3廊式で,大小二つの交差廊を備える。大聖堂北側にはクロイスター(回廊)が付き,その東側に隣接してチャプター・ハウス(1225)が建つ。トリフォリウムが天使像で飾られた内陣(1280)は,〈エンジェル・クワイアAngel Choir〉と呼ばれ,装飾様式の典型をなす。〈グレート・トム〉の愛称をもつ鐘を納めた中央塔は高さ82.5mで,イギリスの大聖堂角塔の中で最高。西正面は,水平線が強調された小アーケード装飾を伴う衝立状壁面をなし,背後に双塔を伴う。二つの交差廊にはさまれた内陣および身廊の天井には,古典ゴシック建築としては異例の手法が見られ,〈気違いボールトcrazy vault〉と呼ばれている。なお,内陣北側の〈メディシン・チャペル〉は,マグナ・カルタの写本を所蔵。
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リンカン
Lincoln

アメリカ合衆国ネブラスカ州南東部にある同州の州都。人口23万9213(2005)。1856年低地部で塩の開発が始まり,59年町が創設され,塩の重要な供給地となった。67年ネブラスカ州の設立時に州都となり,第16代大統領リンカンにちなんで改名した。牧畜・穀物地帯の中心をなす商工業都市で,農業機械,食品などの工業が立地する。ネブラスカ大学(1869創設)をはじめとして,文化・教育の中心地でもある。
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百科事典マイペディア 「リンカン」の意味・わかりやすい解説

リンカン

米国の政治家。第16代大統領(1861年―1865年)。貧農の子。独学で弁護士となって政界に入り,米墨戦争に反対し一時政界を引退。1854年共和党結成とともに政界に戻り1860年大統領に当選。南北戦争では米国の統一保持と奴隷解放とを達成。戦争中ゲティスバーグの戦の後で行った〈人民の,人民による,人民のための政治〉の演説は有名。1864年大統領に再選されたが,南部降伏直後,観劇中に南部出身の俳優J.W.ブースにより暗殺。
→関連項目アメリカ南部連合共和党グリーリーゲティスバーグジョンソンブキャナンブースブレイディラシュモア[山]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「リンカン」の解説

リンカン
Abraham Lincoln

1809~65

アメリカ第16代大統領(在任1861~65)。イリノイ州の貧しい家庭に育ち,独学で弁護士となり,政界に乗り出し,ホイッグ党員として合衆国下院議員などを歴任。共和党結成とともにこれに加わり,1860年の選挙に共和党の大統領候補となり当選。南北戦争中,合衆国政府の指導者として国家の再統一に献身し,戦争終結直後の65年4月ワシントンで観劇中暗殺された。彼は奴隷制を悪とみなしたが,まず奴隷制の地域的拡大を阻止し,次に奴隷を漸進的な方法で解放していくことを考えた。しかし戦争勃発後は国内・国際情勢の動向を測りつつ,62年9月大統領の軍事権限により反乱州の奴隷を解放する方針を宣言し,63年1月1日奴隷解放宣言を発した。これにより憲法修正による奴隷制の全面的廃止への道を確かなものにした。

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旺文社世界史事典 三訂版 「リンカン」の解説

リンカン
Abraham Lincoln

1809〜65
アメリカの第16代大統領(在任1861〜65)
ケンタッキー州に生まれ,のちイリノイ州に移り,貧困の中に成長。弁護士となり,奴隷制度の拡張に反対したが,即時廃止には賛成せず,国内の統一保持を優先させた。1860年共和党から大統領に当選。南北戦争が勃発すると,北部の強硬論者を抑えながら漸進的な奴隷解放の実現をめざしていたが,1863年奴隷解放宣言を発し,アーカンソーなど10州の奴隷約312万を解放した。同年のゲティスバーグの演説で,「人民の,人民による,人民のための政治」という民主主義の理想を示す不滅の言葉を残した。1864年大統領に再選されたが,翌年,熱狂的南部主義者ブースに暗殺された。

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世界大百科事典(旧版)内のリンカンの言及

【アメリカ合衆国】より

…植民地時代に普及した丸太小屋はスウェーデン人やフィンランド人から習った。真実はともかくとして,リンカン大統領が生まれたのは丸太小屋ということになっている。そのリンカンのあごひげはフランス移民のはやらせた習慣である。…

【共和党】より

…アメリカの二大政党の一つ。南北戦争を前に奴隷制拡大反対の諸勢力を結集して,1854年に形成され,56年の選挙に大統領候補を立て全国政党として登場し,60年の選挙にはその候補リンカンを当選させて,二大政党の一つとしての地位を確立した。シンボルマークはゾウ。…

【ゲティスバーグの演説】より

…アメリカ南北戦争中の1863年,ペンシルベニア州ゲティスバーグで行われたリンカン大統領の演説。ゲティスバーグは南軍の北部侵入を防いだ激戦の地で,演説は,戦いの4ヵ月後の11月19日,ここで開かれた国立戦没者墓地奉献の式上で行われた。…

【祝祭日】より

…【笠原 順路】
[アメリカ合衆国]
 アメリカでは日本と異なり画一的な国民の祝日はなく,各州が祝祭日の決定に関する権限をもっている。独立記念日(7月4日)のように全米的に祝われるものもあるが,R.E.リー将軍誕生日(1月19日)は南部諸州のみで,またリンカン誕生日(2月12日)は北部を中心に祝われる。このほかにもアイルランド系移民の聖パトリック祭(3月17日),復活祭,ハローウィーン(10月31日)など,民族,宗教に関連した祝祭日がある。…

【スプリングフィールド】より

…小麦,トウモロコシ,大豆栽培と牧畜の盛んな農業地帯の商業中心地でもある。第16代大統領リンカンゆかりの地で,彼の自宅,墓(オーク・リッジ墓地)などがあり,州立歴史図書館は手紙そのほかのリンカン・コレクションを誇る。1818年に集落が建設され,リンカンを含む〈ロング・ナイン(長身の9人)〉と呼ばれる人々の努力で,37年に州都となった。…

【ピオリア】より

…市名は,先住民のインディアン部族名にちなむ。リンカンが初めて公式に奴隷制を否定した〈ピオリア・スピーチ〉(1854)で有名。【矢ヶ崎 典隆】。…

【マルファン症候群】より

…常染色体優性遺伝性疾患で,人種によらず発生し,性差もない。アメリカの第16代大統領A.リンカンはマルファン症候群であったといわれている。遺伝病心臓弁膜症【柳沢 正義】。…

【猟官制度】より

…ジャクソンは,大統領が任命できる公職612のうち252について更迭を行った。またリンカン大統領は1639の公職の中で実に1457というアメリカ史上最大の更迭を行った。しかしスポイルズ・システムによる公職の更迭は金権政治と結びつき,種々の弊害を生みだした。…

※「リンカン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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