三重県の代表的な陶窯。桑名の豪商沼浪弄山(ぬなみろうざん)(1719―1777)が江戸中期に開窯した。弄山は茶道をよくし、楽焼(らくやき)から入って高火度釉陶(ゆうとう)に至るが、元文(げんぶん)年間(1736~1741)別邸のあった三重県朝日町小向(おぶけ)に開窯。万古不易の意から、作品に「万古」の押印をつけたのでこの名称がある。弄山窯は一般に「古(こ)万古焼」と称し、色絵陶器、銅呈色の緑釉陶(万古青磁)に特色を発揮した。とくに意匠が斬新(ざんしん)で、オランダ意匠を取り入れ、更紗(さらさ)文様も好んで用いている。趣味性の強いものであったが、殖産性も高く、大量に販売され、宝暦(ほうれき)年間(1751~1764)には江戸にも進出して向島(むこうじま)に支窯を設け、「江戸万古」と称した。しかし、弄山没後まもなく廃窯となった。
その後、古万古窯から分かれた良助(よしすけ)が津に安東(あんとう)焼をおこし、1831年(天保2)には桑名の森有節(ゆうせつ)が小向に窯を再興し、世に「有節万古」の名で知られるが、古万古に対して再興万古ともいい、煎茶器(せんちゃき)や酒器が多い。また1853年(嘉永6)には同地で倉田久八(きゅうはち)が「再興安東」(別称阿漕(あこぎ)焼)をおこし、1856年(安政3)には弄山の縁続きになる竹川竹斎が松坂の射和(いざわ)で「射和万古」を開窯したが、数多い万古系窯のなかでは射和がもっとも古万古の遺風を伝える。明治初期には有節万古を導入して「四日市万古」が開かれ、煎茶道具が多く焼かれている。
[矢部良明]
三重県の陶芸。伊勢桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん)(1718-77)が元文年間(1736-41)に,別宅のあった朝日町小向(おぶけ)に窯を築き,いわゆる御庭焼を開始したのが万古焼である。製品に〈万古〉あるいは〈万古不易〉の印を捺したので万古焼と呼ばれ,弄山窯の作品は俗に古万古と称される。茶陶を写し,色絵や銅呈色の青釉陶に特色をみせた。とくに赤を基調とする色絵は独特のもので,異国趣味の更紗文様を好んで描き込んでいる。その製品は御庭焼の範囲を超えて江戸でも売り出され人気を博した。そのため江戸の向島小梅に支窯を設け,これを江戸万古と呼ぶ。弄山が没したのち,数十年窯は存続したようだが,文化年間(1804-18)までにいったん廃されていたと推測される。しかし,古万古窯から分かれた陶工良助が津において安東焼をはじめ,桑名の森与五左衛門有節は1831年(天保2)に小向に有節万古窯を,56年には竹川竹斎が松阪市射和(いざわ)に射和万古窯をきずいて,万古窯を再興した。明治初期には有節万古を導入して四日市万古が開かれ,赤土素焼の急須などが焼かれている。
執筆者:矢部 良明
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…工業では,鋳物・刀剣・鐔(つば)を産し,造船用の釘も製造された。陶器には四日市を中心とする万古(ばんこ)焼などがあり,漆器も桑名,山田で造られた。丹生の水銀を原料とする化粧用の軽粉や,製薬では万金丹が知られた。…
…東京都墨田区南部の地名。隅田川東岸に位置し,1~4丁目に分かれる。1868年(明治1)東京府に編入され,78年本所区が成立。1944年向島区と合併し,墨田区となった。江戸初期には農村であり,本所村,中之郷村と呼ばれた一帯は,明暦の大火(1657)の後,急速に市街地として開発された。1660年(万治3)に本所築地奉行が設置され,竪(たて)川,横川,十間(じつけん)川,南割(みなみわり)下水などの堀がつくられ,低地を埋め立てて宅地が造成された。…
…17世紀中ごろには700戸ほどだったが,19世紀初めには町方だけで1628戸,天保年間(1830‐44)にはさらに1811戸・7114人と増え,旅籠屋(はたごや)は98軒にも達し隆盛であった。幕末に山中忠左衛門が興した万古(ばんこ)焼が現在も特産物になっている。【深谷 克己】。…
※「万古焼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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