三宝寺(読み)さんぼうじ

日本歴史地名大系 「三宝寺」の解説

三宝寺
さんぼうじ

[現在地名]練馬区石神井台一丁目

亀頂山密乗院と号し、真言宗智山派。本尊は不動明王。三宝院流願行方の幸尊の創建で(中興とする史料もある)、応永元年(一三九四)の開創とも(「武蔵州豊島郡亀頂山密乗院三宝寺縁起」三宝寺文書)、同二年の開創とも伝える(豊島泰盈本「豊島系図」)。府川系「豊島系図」は開基を豊島宗朝とする。当初は現在地の背後、石神井城東方の丘の上、下石神井の小仲原こなかはらにあったと伝え(「三宝寺略縁起」三宝寺文書)、文明一〇年(一四七八)の豊島氏滅亡後、太田道灌が現在地に移したという。天文一六年(一五四七)には後奈良天皇より祈願寺となす綸旨が下されたが(同年八月一五日「後奈良天皇綸旨写」武州文書)、これによれば以前から天皇家の祈願寺であった。


三宝寺
さんぽうじ

[現在地名]白鳥町入野山

白鳥からみなと川沿いに五名ごみように向かう道と、大内おおち水主みずしから星越ほしごえ峠を越えて入野山にゆうのやまに至る道の合流点、入野山の中心部に位置する。竜王山法幢院と号し、浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来。三宝寺縁起(寺蔵)によると、開基は赤松庵正清で、永禄年中(一五五八―七〇)香川郡に住んだが、阿州板野いたの郡に移って円心と改称し、天台僧となった。天正元年(一五七三)入野山の北谷きただにに移り、本願寺顕如に帰依して一向宗に改め、一宇を建立して三宝寺とし、自らも了禅と改称したという。


三宝寺
さんぽうじ

[現在地名]長崎市寺町

興福こうふく寺の北にある。万年山此経院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。元和(一六一五―二四)初め長門はぎ(現山口県萩市)出身の転誉胡的が矢負の弥陀とよばれる如来像(伝円仁作)を奉じて長崎に来て浄土宗の布教に努めたところ、帰依者が増えたため長崎奉行の長谷川権六が東山の中之平なかのひらに三宝寺を建立して転誉を開基としたという。元和九年京都知恩院末となった(長崎市史)。寺地は阿弥陀堂のあった跡で、円仁作という阿弥陀像を安置したともいう(浄土宗寺院由緒書)。転誉は在住一〇ヵ年ののち周防国柳井やない(現山口県柳井市)瑞相ずいそう寺に移った。寛文三年(一六六三)の大火後、拝借銀二貫目が渡された(寛宝日記)


三宝寺
さんぽうじ

[現在地名]小川町南部田

山号は梵福山、下益城地方では唯一の黄檗宗寺院で、山城国宇治萬福まんぷく寺を本山とする。本尊は釈迦如来守山もりやま八幡宮の隣にあり、往時天台宗であったという。「国誌」に守山八幡の神宮寺は真言宗とあるので、当寺の所在地がかつての神宮寺であったかは不明。当寺の開基鉄眼道光の父浄信は守山八幡宮の社僧であったので、古くから守山八幡にかかわる地であったと推察される。延宝二年(一六七四)鉄眼の父浄信が死に、居宅を寺院に改め三宝寺と称した。鉄眼は一切経(大蔵経)の刻版に生涯を捧げた僧として高名。


三宝寺
さんぽうじ

[現在地名]右京区鳴滝松本町

周山しゆうざん街道北の白砂しらすな山の中腹にある。日蓮宗。金映山と号し、本尊十界大曼荼羅。寛永六年(一六二九)中正院日護に深く帰依した今出川(菊亭)経季と中山(今城)為尚が、日護を開基に菩提寺として建立(雍州府志)。「都名所図会」に「本堂は南向にして釈迦堂は山上にあり」とあるが、本堂には彫刻に長じた日護作の釈迦像を置き、境内千体仏堂に安置する半丈六の釈迦如来像は平安時代の作とされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android