知恵蔵 「三菱自動車工業」の解説
三菱自動車工業
同社の自動車生産の歴史は古く、同社の源流である三菱造船(後の三菱重工業)が大正年間には手作りながら量産車を世に出した。20台余が製造されたものの売れ行きは芳しくなく、軍用航空機生産などに注力するため、自動車生産からは撤退した。このため、同社の事実上の自動車生産は、太平洋戦争敗戦後に米国自動車メーカーとの提携によって開始された。1953年には同社を象徴する軍用四輪駆動車ジープの生産が始まり、60年前後には、軽三輪車や小型車コルト、軽自動車ミニカなどが相次いで発売された。また、バスや大型トラックなども同時期に生産・発売された。自動車生産の拡大と本格化により、同社は三菱自動車工業として三菱重工業から70年に分離独立している。自動車産業の発展の中で、同社も国内4位のメーカーとして大きく業容を伸ばすが、2000年に大規模なリコール隠しが発覚した。23年間にわたって10車種100万台以上もの各種車両について重大な不具合を運輸省(当時)に報告せず、会社ぐるみで隠していたというもの。社長らが辞任(後に逮捕)するも、古い欠陥を隠し続けたことで更なる死傷者を出すなどし、同社は信頼を失って経営不振に陥った。こうした経緯を経て、バス・大型トラックなどの製造は、ドイツのダイムラー傘下の三菱ふそうトラック・バス株式会社に移管された。その後、赤字の拡大で三菱重工業などの支援を受け、子会社として再建を図ったが自動車市場の冷え込みなどもあり、長く低迷が続いた。06年に電気自動車i-MiEVを発表、09年から量産を開始したが、未だ収益化には程遠い。11年には日産自動車と合弁で株式会社NMKVを設立し、軽自動車事業を移管していく方向性を打ち出した。このNMKVで開発した軽自動車の燃費を日産自動車が実際に測定したところ、国土交通省に届け出たデータとはかけ離れた値となり、16年に燃費試験の不正が発覚した。1991年以降製造のすべての車両で、燃費測定の不正やデータの改竄(かいざん)などが行われ、中には2割近い燃費の水増しが行われているものもあった。同社会長就任を予定する日産自動車のカルロス・ゴーン社長は、同社の度重なる不正に対し、再発防止の取り組みを支援するとして企業の自浄作用の必要性を訴えている。
(金谷俊秀 ライター/2016年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報