下吉田村(読み)しもよしだむら

日本歴史地名大系 「下吉田村」の解説

下吉田村
しもよしだむら

[現在地名]吉田町下吉田

現在の吉田町域の南東端を占め、東は太田おおた(現秩父市)、西は上吉田村、南は下小鹿野しもおがの(現小鹿野町)。半ば山間の地で、上吉田村から東流する吉田川は村の中央部で南流してきた阿熊あぐま川を合せ、村の東部で北流する赤平あかびら川に注ぐ。太田村からの往還と下小鹿野村からの往還が村の中央部で合流し、吉田川に沿い上吉田村に向かう。中世には上吉田村などとともに吉田郷として推移した。「風土記稿」によれば村の東寄りに高札場がある。また東部の小名まちに八〇軒ほどが軒を並べる町並があり、吉田町とも称していた。同所では毎月三・八の日の六斎市が立ち、郡の名産である絹・煙草やその他諸品を交易していた(「風土記稿」など)。近世初めは幕府領、寛文六年(一六六六)三河中島藩領となり、同一二年幕府領に復する。その後、天明四年(一七八四)下総関宿藩領、同七年幕府領、天保七年(一八三六)上総貝淵藩領、同一二年幕府領と変遷し、元治元年(一八六四)幕臣平岡氏の領地となったと考えられる(「風土記稿」「寛政重修諸家譜」「郡村誌」など)。田園簿に村名がみえ、高一千一九〇石余・此永二三八貫五文とある。寛文四年の差出(斎藤家文書)によれば村高は永二九〇貫余で、反別は田三九町五反余、畑三六二町四反余・屋敷一二町六反余、ほかに寺領除地一町四反余、御蔵屋敷除地一反余、検地案内免除地四反余があり、浮役として綿役永一貫余・紙舟役永二貫余などが課せられていた。元禄一六年(一七〇三)年貢割付状(同文書)では高一千四五九石余、田三九町五反余・畑三七六町三反余。宝暦元年(一七五一)の年貢割付状(同文書)では高一千四六〇石余、田四〇町五反余・畑三七六町二反余となり、四反六畝が溜池敷堤敷引とされている。


下吉田村
しもよしだむら

[現在地名]富士吉田市下吉田・たつおか一―三丁目・みどりおか一―二丁目・あさひ一丁目

上吉田村の北にある。広い緩傾斜地で、湧水を水源とする小河川が多い。東から南東にかけては桂川を境に小明見こあすみ村・大明見おおあすみ村、南西は松山まつやま村に接する。西は溶岩台地けん丸尾上で新倉あらくら村と境し、北も溶岩台地上で上暮地かみくれち村と接する。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控に下吉田村とみえ、高六四九石余。慶長古高帳では高二一石余となっている。寛文九年(一六六九)検地帳(萱沼安孝家文書)によれば田三三四石余・畑五三五石余、合せて八七一石余、ほかに桑一〇六束、下宮浅間しもみやせんげん(現小室浅間神社)領一二石余。反別は上田六町七反余・中田一〇町三反余・下田一一町九反余・下々田四町九反余・見付田二反余、上畑一八町一反余・中畑一一町九反余・下畑一一町七反余・下々畑一二町二反余・見付畑四町四反余、屋敷一〇町六反余。


下吉田村
しもよしだむら

[現在地名]吉田町住吉すみよし

寄子よりこ(現坂口谷川)の河口左岸に位置し、東部を湯日ゆい川が南東流して駿河湾に注ぐ。北は上吉田村、東は九左衛門くざえもん新田。現山梨県塩山市放光ほうこう寺が所蔵する嘉慶二年(一三八八)六月一〇日書写の大般若経巻四七八の奥書に異筆であるが蓁原はいばら吉田とある。永禄一二年(一五六九)一月二六日、今川氏真は四宮泰雄に遠江国本知行分の代りに浅井分であった吉田などを宛行っている(「今川氏真判物」某氏所蔵文書)。その後分郷したようで、元亀四年(一五七三)一〇月一日の武田勝頼判物(小浜文書)に「下吉田之郷」とあり、勝頼は小浜景隆に岡部石見(輝忠)分の同郷五〇〇貫文などを宛行っている。


下吉田村
しもよしだむら

[現在地名]善通寺市下吉田町・上吉田町かみよしだちよう八丁目

金倉かなくら川の中流域西方、上吉田村の北東にある。多度たど郡に属し、上吉田村とともに古代・中世の良田よしだ郷の遺称地。寛永国絵図に村名がみえ、吉田郷に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳でも吉田村に含まれるが、内訳に下吉田宮領(四石)がみえる。同社は当村の八幡宮にあたると思われる。京極家の入部後吉田村は当村と上吉田村・稲木いなぎ村に分立したと考えられ、以降も三吉田村と称されることがあった。元禄一一年(一六九八)の家数九九・人数五〇五、牛二八・馬二、溜池一(「弘田組明細帳内書抜」鎌田博物館蔵)。「西讃府志」によると反別は五三町一反余、うち畑一町二反余・屋敷三町余。


下吉田村
しもよしだむら

[現在地名]鳳来町下吉田

上吉田村の北、黄柳つげ川の本・支流と阿寺あてら川沿いの平坦面に立地。標高五〇八メートルの大村おおむら山中腹に、高野たかの大田輪おおだわ大沢おおさわの集落がある。天正一八年(一五九〇)吉田藩領、慶長五年(一六〇〇)徳川氏領、同八年幕府領、明暦二年(一六五六)海老菅沼氏領。

文政年間(一八一八―三〇)の鈴木武家万書控(下吉田区有)によると、幕府領当時の石高は上吉田村とともに合計六一三石余であったが、明暦二年菅沼越中守定賞の検地で一千一七三石を検出。


下吉田村
しもよしだむら

[現在地名]益田市栄町さかえまち中島町なかのしまちよう

高津川と益田川に囲まれた三角洲に位置し、東は中吉田村、北は中之島なかのしま村。もと吉田村のうちで、宝永石見国郷村帳では吉田村枝郷として村名がみえ、高一七九石余。庄屋は藤井氏で、浦年寄も兼ねて代々世襲。寛政六年(一七九四)の村書上帳では、庄屋給米は四・七俵分(益田町史)。安永六年(一七七七)の村明細帳(右田家文書)では田一四町四反余・畑六町九反余、家数二七・人口一三一とある。

西にしいちの地名があり、中吉田村の市と同じように益田村の宗味そうみ市が衰退していくにつれて盛んとなった。しかし宗味市ほどの広域性はなく、小規模なものであった。浜田藩の番所がこえ峠に作られ、津和野藩への抜荷の取締に当たった。


下吉田村
しもよしだむら

[現在地名]平鹿町下吉田、大雄たいゆう

北は七日市なぬかいち村、東は清水町新田しみずまちしんでん(現横手市)、南は中吉田村、西は大塚おおつか(現雄物川町)に接する。

もと、上吉田村・中吉田村・下吉田村は一村であったが、元和二年(一六一六)三村に分れた(雪の出羽路)。枝郷として、「六郡郡邑記」に下福田しもふくだ村・高口たかぐち村・四ッ屋よつや村があり、「雪の出羽路」では四ッ屋村が消え、畑中はたけなか村・狐塚きつねづか村が新出し、田地字として大道おおみち和村わむらがある。


下吉田村
しもよしだむら

[現在地名]山鹿市下吉田

南部を吉田川が南流し、北は名塚なづか村、東は久原くばる村、西は熊入くまいり村と接する。「国誌」所載の菊池持朝が裏書をする永享六年(一四三四)一二月二一日の日輪禅寺建立次第によると、同寺の寺領に「吉田大園之内野豆」一町がある。天正一七年(一五八九)の検地帳によると田三九町八反四畝余・畠二一町二反六畝余・屋敷一九筆二町一反一畝余、分米六三四石三斗余、下ケ名にしゃかのまへ・天神免・あぶらてん・御くらてん・ちそうとうなどがある。近世は中村手永に属する。正保郷帳では田四八三石一斗余・畠一五一石二斗余とある。


下吉田村
しもよしだむら

[現在地名]川辺町下吉田

飛騨川左岸の河岸段丘上にあり、北は飛騨川を隔てて下麻生しもあそう村、南は比久見ひくみ村。近世は初め幕府領、元和元年(一六一五)より尾張藩領となる。慶長郷帳では下吉村とあり、高一九三石余。正保郷帳では田高六九石余・畑高一二〇石余・山年貢三石。明暦覚書では概高三四〇石余(山年貢高とも)、人数二九〇、馬一二。下麻生村とともに筏乗の役を勤めるとある。「濃州徇行記」によると家数六四・人数二三六、馬五。村はヲガノ、林皆戸、大チ、エガノ、ウスノ、本郷に分れている。農業のほかに柴・薪を採り他村へ売出し渡世とした。飛騨川に下麻生村への渡船があり、船は当村持で修復は拝借金で行う。


下吉田村
しもよしだむら

[現在地名]会津若松市高野町柳川こうやまちやながわ

川東岸にあり、東は下高野村、南東は上吉田村、北西は界沢さかいざわ村。もとは上吉田村と一村で吉田村と称し、明徳二年(一三九一)五月一三日の某判物(新編会津風土記)に「諏訪社務職事」として「千四百束苅 吉田村三百文」が記され、刑部律師什明が諏訪神社社務職に補任されている。現在もこの辺り一帯の、南は上高野から森台もりだいにかけては三百苅さんびやくかり大五百苅だいごひやくかり千苅せんがりなどの中世の土地割を示すと思われる地名が残っており、開発の古さを感じさせる。


下吉田村
しもよしだむら

[現在地名]六戸町下吉田

東流する奥入瀬おいらせ川の右岸近くの平地に位置する。北と東は下田しもだ(現下田町)、西は上吉田村などに接する。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に吉田村、一〇九石余とあり、同年の郷村帳では一〇九・一九石のうち田が七四・八五九石であった。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付にも吉田村として高三五七・九六七石とあり、七ヵ年平均の免は二ツ二分四厘六毛である。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」では下吉田村と上吉田村とに分れており、分村したのであろう。


下吉田村
しもよしだむら

[現在地名]美山町大字下吉田

宮島みやじま一一ヵ村の一。由良川流域の山間集落。南は宮脇みやわき村、北西はしま村、東は又林またばやし村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、中世は野々村ののむら庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より園部藩領となる。慶安元年(一六四八)三月、園部藩の検地を受けた。その時の検地帳(旧下吉田村共有文書)によると、上田は四町九段三畝三歩で五九・一七二石、中田は七段九歩で七・七三三石、下田は八段二畝で八・二石。屋敷上畑は一町七段二畝で一〇・三二石、中畑は二町三段三畝一五歩で一・六七五石、下畑は六町三畝三歩で二四・一二四石。


下吉田村
しもよしだむら

[現在地名]南河内町下吉田

鬼怒川川に挟まれた低地に位置し、北は本吉田もとよしだ村、東は大道泉だいどういずみ(現芳賀郡二宮町)。慶安郷帳に村名がみえ、田高四斗余・畑高五一石余、幕府領。寛文四年(一六六四)には都賀つが郡の内として久世広之領(寛文朱印留)元禄郷帳では宇都宮藩領。改革組合村では幕府領とみえ、幕末に至る。元禄郷帳・天保郷帳・旧高旧領取調帳とも一六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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