松原村ニ
、属
仁和寺
、荒廃シテ 後資財流記入
当寺ニ
今復散逸、開基寛空天徳四年ニ建、康保三年二月六日空於
此化ス、葬ス
本坊ノ北菩提樹院ノ後山ニ
」とある。空海の建立とする伝えもあるが、「日本紀略」天徳四年(九六〇)九月九日条に、「権僧正観空、供養北山蓮台寺」とあり、一〇世紀半ば頃、宇多法皇の弟子寛空が勅命によって当寺を創建、もしくは堂宇を再興したと考えるのが妥当であろう。寛空は隣接の香隆寺を兼帯し、その後香隆寺が廃されて当寺に合体し、香隆寺とも称されるようになった。
「扶桑略記」寛和三年(九八七)二月条に、四年前宋商人陳仁夾の船で入宋した然が帰朝し、摺本一切経謁等とともに釈迦如来像が
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市北区紫野十二坊町にある寺。真言(しんごん)宗智山(ちさん)派に属する。蓮華金宝山(れんげきんぽうざん)地蔵院と号する。本尊は延命地蔵菩薩(ぼさつ)。聖徳太子の創建と伝える。960年(天徳4)寛空(かんくう)が再建し、村上(むらかみ)天皇の勅号を賜り、奝然(ちょうねん)が請来(しょうらい)した一切経(いっさいきょう)を安置したこともあった。応仁(おうにん)の兵火にあって堂宇を焼失したが、のち豊臣(とよとみ)秀吉が寺領を寄進し、紀州(和歌山県)根来(ねごろ)山の性盛(しょうせい)が再興した。もとは12坊もあったが、現在は本堂のほか数坊を残すだけである。付近は蓮台野といわれ、東の鳥辺野(とりべの)と並んで墳墓の地であった。寺宝に紙本着色『絵因果経(えいんがきょう)』(天平時代、国宝)や、六地蔵画像と文殊(もんじゅ)菩薩画像各1幅(ともに国重要文化財)がある。
[勝又俊教]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…蓮華金宝山と号する。正称は上品(じようぼん)蓮台寺,俗に九品三昧院(くぼんざんまいいん)また十二坊という。京都の葬送地の一つ,船岡山の西の蓮台野にあり,葬送菩提の寺として栄えた。…
※「上品蓮台寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」