下市場村(読み)しもいちばむら

日本歴史地名大系 「下市場村」の解説

下市場村
しもいちばむら

[現在地名]伊丹市東有岡ひがしありおか一丁目・同四丁目・南町みなみちよう三丁目

伊丹郷町からハセントウ坂を下って移転前の外崎とざき村の東にある。下一場村とも(「正心調法記」武田家文書)文禄伊丹之図に村名がみえる。伊丹郷町を形成する一五ヵ村の一村だが、正保郷帳では伊丹町の左脇に村名を記す。元禄国絵図・天保国絵図(内閣文庫蔵)とも伊丹郷の各村から切離して描く。石高は延宝五年(一六七七)の巡見絵図(篠木家蔵)では四七石余。前掲元禄国絵図は五九石余。正徳五年(一七一五)・享保一四年(一七二九)と新開畑の年貢納入が始まり(宝暦七年頃「昆陽組邑鑑」昆陽農業協同組合文書)、享保二〇年の摂河泉石高調では高六五石余。


下市場村
しもいちばむら

[現在地名]豊田市下市場町前田まえだ町・トヨタ町・丸山まるやま町・山之手やまのて明和めいわ町・前山まえやま

豊田盆地の越戸こしど面の段丘が最も広範に発達している現常盤ときわ町から金谷かなや町・下市場町の一角に位置する。「七州城沿革小史」によれば、「地勢東部ハ矢作川ニ傍テ稍南ニ低シ南部ハ低地ニシテ水田多ク北部ハ高燥ニシテ山林原野多シ而シテ水田ノ如キハ明治川。矢作川逆水ノ為メ水害ヲ被サル年ハ殆ント希ナリ」とある。中世には高橋たかはし五日市場いつかいちばが存在したと推定される。内藤氏入部前後には、鹿島明神社のほかに八王寺小社・小猿投こさなげ明神社・山神小社・弁才天・薬師堂があり、それぞれ境内は年貢除地とされ、浄土宗光明寺境内のみ年貢地であった。


下市場村
しもいちばむら

[現在地名]春日井市下市場町・かなぐち町・篠木しのぎ町・浅山あさやま町・十三塚じゆうさんづか

した街道の関田せきだ村原島を過ぎるとに出る。ここから南東の村。戦国時代の中頃慈眼じげん寺の開基梶田繁政の居館があった。神明神社の近くにその石垣の跡があって、北の小字名を北城きたしろ、南を南城といい、東木戸・西木戸とよばれるところがある。この木戸の外で馬市が立ち、西を下の市場、東を上の市場といっていたと伝える。


下市場村
しもいちばむら

[現在地名]信州新町下市場

牧之島まきのしま村の西北さい川の蛇行した段丘の北側の沖積地に立地する。現在、北から穂刈ほかり橋によって国道一九号が通じ、大原おおはら橋によって大原村へ至る。牧之島村との境に、牧城・牧之島城がある。

村内の南、おともだいら縄文土器を出土する。

中世から市場があって村名の起りとなったという。近世犀川渡し船によって南北交通の要路であった。


下市場村
しもいちばむら

[現在地名]八千代市下市場一―二丁目

村上むらかみ村の南に位置。もとは村上村草刈場で、同村の百姓が開墾したという(印旛郡誌)。「寛文朱印留」に葛飾かつしか郡として村名がみえ、佐倉藩領。以後幕末まで同藩領。元禄郷帳では高九石余。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚によれば、享保九年(一七二四)新田を合せて高一〇石余、夫役永二九文余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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