日本歴史地名大系 「下畑村」の解説
下畑村
しもはたむら
下畑村
しもはたむら
千曲川左岸、比高一〇メートル内外の低い段丘上に位置する南北に細長い村。東は千曲川によって
中世から伴野庄畑物村の一部であったが、天正一四年(一五八六)依田康国領の信州佐久郡之内貫之御帳に「百五拾貫下畑分、拾壱貫大窪分、七拾貫中畑村、七拾貫上畑村」とあるから、この頃、上畑・中畑・下畑・大窪の四ヵ村に分れたものと思われる。
村の西方、段丘崖上に下畑城跡、その北に接して下の城跡がある。下畑城跡はよく旧形をとどめ、付近の字名にも古名を多く残している。下の城はその支城とみられる。「妙法寺記」に、天文九年(一五四〇)武田信虎が佐久郡に攻め入り、一日に城を三六落し、小山田殿(甲州郡内領主)の代として、小林宮内助も一城を構えた、とあるのが下畑城であろう。その後、武田信玄が佐久地方を領有するに及び、この地方の番城として小宮山丹後守昌友に守らせたものと思われる。
下畑村
しもはたむら
下畑村
しもはたむら
下畑村
しもはたむら
下畑村
しもはたむら
下畑村
しもはたむら
下畑村
しもはたむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報