中根村(読み)なかねむら

日本歴史地名大系 「中根村」の解説

中根村
なかねむら

[現在地名]茂木町千本せんぼん

上菅又かみすがまた村の北、鶏足けいそく山塊の北西麓に位置し、集落は東流する坂井さかのい川の谷沿いと低位な山間地帯に形成され、下郷しもごう・中根・大門だいもん赤石あかいし広見田ひろみたの五組に分れる。中世には那須千本氏の本拠地であった。康正元年(一四五五)一二月五日の足利成氏書状写(那須文書)に、中根が落居したならばその軍勢を茂木城に差向けよとある。なお文明一四年(一四八二)一一月日の茂木家臣給分注文(茂木文書)に与八の給分として中根がみえるが、鮎田あゆたの小字中根のことであろう。

近世はおおむね旗本千本領。元禄一二年(一六九九)の生井村宗門改帳(生井区有文書)には千本町と記される。


中根村
なかねむら

[現在地名]勝田市中根・長堀ながほり町一―三丁目・松戸まつど町一丁目・笹野ささの町一丁目・後野うしろの一―二丁目・上野かみの二丁目

おお川が村のほぼ中央を南流し、南は三反田みたんだ村・金上かねあげ村。嘉禎二年(一二三六)鹿島神宮の神社用途御供目録(「鹿島長暦」所収)のなかに「中根郷二十六石」とみえ、鹿島神宮の支配下にあった。明応年間(一四九二―一五〇一)の「当乱相違地」(秋田藩採集文書)に「一、中根方入野江戸」とみえ、さらに「料所」として「一、いの中根方・八木方 同なかね方の事、竹隠に申子細候」とみえる。文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「中根」とあり、佐竹氏の一族東義久の知行地であった。


中根村
なかねむら

[現在地名]本埜村中根

笠神かさがみ村の南にあり、佐倉城下までは三里の道法。地内ほぼ中央の鳥見とりみ神社の後背地にある宮内みやうち遺跡は旧石器時代から近世に至る複合遺跡。同社北東の福聚ふくじゆ院の本尊阿弥陀如来三尊像は鎌倉時代の作で、境内観音堂の十一面観音は平安時代の作とされるほか、嘉元四年(一三〇六)・元亨二年(一三二二)銘などの武蔵型板碑が残る。慶長七年(一六〇二)七月の印西庄中禰郷御縄打水帳(岩井伊厚家文書)が伝えられ、当時臼井藩領であったものと思われる。このときの村高は五〇三石余であったが、明暦二年(一六五六)村内の芝地を開発して一〇石余、延宝元年(一六七三)には埜地を開発して四石余、埜原を開発して六三石余を増やし、文化八年(一八一一)村明細帳(同文書)では五八四石余で、幕末まで変わらない。


中根村
なかねむら

[現在地名]瑞穂区関取せきとり町・井の元いのもと町・片坂かたさか町・軍水ぐんすい町・仁所にしよ町・丸根まるね町・中根町・白砂しらすな町・弥富やとみ通・玉水たまみず町・日向ひなた町・市丘いちおか町・釜塚かまつか町・松園まつその町・豊岡とよおか通・山下やました通・田辺たなべ

天白てんぱく川を南境とし、東は八事やごと(現昭和区・天白区)、西はいし(山崎川)を挟んで本井戸田ほんいどた村などに接し、村北部は八事丘陵から連なる山丘の南端にあたる。弘化四年(一八四七)の村絵図(徳川林政史蔵)によれば、村北部の丘陵は御林方支配の定納山で、その裾野に東から大根だいこん池ほか六ヵ所の雨池があり、その用水を引いて田畑が開ける。中央に給人百姓を中心とする集落が開け、南西部に出郷として仁所がある。


中根村
なかねむら

[現在地名]西尾市中根町

矢作川下流の三角州、平坂へいさか入江の入口東岸に位置する干拓新田村。慶長一〇年(一六〇五)矢作川の改修によって本流が西南の海に注がれてから、埋積した土砂により大州を干拓して元和年間(一六一五―二四)養永島ようえいじま新田が築かれ、これを足場に西に元禄五年(一六九二)中根新田が開発され、のち両者を合併して中根村となる。

中根新田の最初の開発者は、尾張名古屋幅下ふくした町の町人辰巳屋忠右衛門、三ヵ年の歳月を要し、元禄五年五三町四反余を開く。この新田築立により、巨海こみ村に浸水の損害を与えるため、代償として新田のうち二割、一〇町二畝九歩を巨海村に割譲した。


中根村
なかねむら

[現在地名]焼津市中根

三右衛門さんえもん新田の南に位置し、志太しだ郡に属する。南は中根新田。貞和四年(一三四八)一二月一〇日の足利直義御教書写(今川家古文章写)に中根郷とみえ、足利直義は駿河守護今川範国に先年預け置いていた当郷などの正税を免除している。文亀二年(一五〇二)六月吉日の恵順道者職売券(橋村家文書)は伊勢御師恵順から同御師橋村八郎大夫への道者職売渡し証文で、そのなかに「なかねの里一円」とあり、旦那として「まき田七郎さへもん殿、まき田与三ひやへママ殿」がみえる。


中根村
なかねむら

[現在地名]藤岡町中根

南東流する川東岸にあり、南は赤麻あかま沼、東は富吉とみよし村。東は富吉台地、西は赤間台地を控え、もと中台なかだいと称したという。南部は現在も小字名をだいという。近世初期、富吉村の織田一族を頼って帰農した石塚内膳により開かれたと伝える。慶安郷帳に村名がみえ、田五三石余・畑五八石余・野銭七石余、旗本杉浦・朝岡領の二給。元禄郷帳では下総古河藩領、改革組合村では下総関宿藩領、旧高旧領取調帳では古河藩領。


中根村
なかねむら

[現在地名]太田市中根・西新町にししんまち

下田島しもたじま村の北、石田いしだ川の北方低台地上にあり、北は上田島村、西は木崎きざき(現新田郡新田町)。寛文郷帳には中根田島村とあり、田方四二六石余・畑方三六一石余で、大坂定番の安部信盛領。明和元年(一七六四)の村明細帳(「村明細帳の研究」所収)によると、寛文郷帳と同高で武州岡部藩領。田方三二町九反余・畑方四五町四反余で、家数四九・人数一九五、作馬五。用水は山田郡一本木いつぽうぎ(現桐生市)より渡良瀬川の水を引いた。日光例幣使街道木崎宿の加助郷村で、廻米の津出しには前島まえじま河岸(現新田郡尾島町)を利用した。天保九年(一八三八)の村明細帳(前掲書所収)によると、家数三八・人数一五八、農間に女は絹、木綿織の売買渡世を近在で行っていた。


中根村
なかねむら

[現在地名]北浦村中根

山田川右岸の台地上にあり、東は繁昌はんじよう村、西は南高岡みなみたかおか村。中世は小高氏の支配領で(新編常陸国誌)、康永二年(一三四三)正月九日の鹿島神宮領田数注文案(鹿島神宮文書)に「中根十六丁六十歩」とある。戦国末期に佐竹氏領となり、同氏の秋田移封後は仁賀保氏領・皆川氏領を経て、元禄一三年(一七〇〇)府中(石岡)藩松平氏領となる(徳川加封録、寛政重修諸家譜)。弘化元年(一八四四)の中根村天神谷用水池並溜池御普請入用割帳(吉川区有文書)によれば、周辺九ヵ村(借宿・野友・串挽・高田・高岡・中根・繁昌・吉川・白浜)から総人足一千七三七人(当村は二五七人)の割当があり、「右ハ繁昌村吉川村旱地ニ付、中根村天神谷ツ池堤築キ足シ並同所古荒田方溜池願出御普請入用割、如此御座候」と記される。


中根村
なかねむら

[現在地名]豊田市中根町

市域南端部に位置し、逢妻男あいづまお川に架かる男川おがわ橋の西に広がる地。北中根村とも称した。近世初めは刈谷藩領で、寛文一一年(一六七一)から吉原よしわら陣屋の稲垣淡路守支配となり、元文五年(一七四〇)には幕府領、安永七年(一七七八)から沼津藩領となる。寛永一〇年(一六三三)花園はなぞの村から分郷した。同年の三河国碧海郡花園村検地帳田方帳(花園区有)によれば、中根村の田地六町五反四畝のうち五町八反五畝余が茂右衛門の土地で、茂右衛門の地の三町八反五畝余に「下おとこ作」と記され、近隣から来た耕作者の存在をうかがわせる。


中根村
なかねむら

[現在地名]大穂町かなめ 中根

蓮沼はすぬま村の東南に所在。江戸後期には天領で岡田寒泉が代官であった(岡田寒泉功徳碑)。「各村旧高簿」によれば幕末には天領で村高一九二・一八五石。明治一七年(一八八四)猿壁さるかべ村・弥平太やへいだ村・南口みなみくちほり村・上口かみくちほり村・中根村は合併して要村となった。


中根村
なかねむら

[現在地名]松戸市中根・北松戸きたまつど中根長津町なかねながつちよう西馬橋幸町にしまばしさいわいちよう

新作しんざく村の北に位置し、村内を水戸道が通る。慶安年間(一六四八―五二)頃の成立といわれる高城胤忠旧知行高付帳には「中根村高七拾石」とある。元禄一二年(一六九九)の小金領野馬法度請書では高八一石余、幕府領。旧高旧領取調帳でも同領。なお元禄郷帳・天保郷帳では新作村枝郷との注がある。


中根村
なかねむら

[現在地名]桜村中根

平坦な水田地帯にあり、西は上境かみさかい村。元禄一二年(一六九九)土浦藩領となり(土浦市史)、元禄郷帳の村高は四〇七石余。「県方集覧」(酒井泉氏蔵)に「家数三拾三軒、人数弐百弐拾弐人、馬拾五疋」とある。「新編常陸国誌」によれば、村は東と西の二坪に分れていた。


中根村
なかねむら

[現在地名]牛久町中根

小野おの川左岸の台地上にあり、東は下根しもね村。寛永六年(一六二九)牛久藩山口氏領となり(寛政重修諸家譜)、「寛文朱印留」に村名が載る。元禄郷帳の村高は一〇一石余で、幕末は牛久藩領一〇七石余(各村旧高簿)


中根村
なかねむら

[現在地名]明野町中根

観音かんのん川右岸の低地にあり、北は山王堂さんのうどう村。江戸時代は天領・旗本領で、元禄郷帳の村高は三三九石余、「常南遊記」の戸数は二〇。幕末は天領二〇石余、旗本小林氏領二一四石余、朝比奈氏領一〇一石余、川副氏領三五石余、石原氏領二〇石余、宝正ほうしよう院領三石(各村旧高簿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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