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久世荘 くぜのしょう

百科事典マイペディアの解説

久世荘【くぜのしょう】

山城国乙訓(おとくに)郡の荘園。現京都市南区久世付近。鎌倉時代には上・下・本・東を冠した4荘に分かれた。うち上久世荘下久世荘足利尊氏から京都東(とう)寺八幡宮に寄進された。

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世界大百科事典 第2版の解説

くぜのしょう【久世荘】

山城国乙訓郡(現,京都市南区)にあった荘園。《和名抄》の訓世郷の地。1099年(康和1)には治部卿藤原通俊の所領であり,平安末に安楽寿院領となった。鎌倉時代を経て上久世荘,下久世荘,本久世荘(大藪),東久世荘(築山)に分かれた。本久世荘,東久世荘は安楽寿院を本家と仰ぐ久我家領となり,上・下久世荘は承久の乱後北条得宗が地頭となった。鎌倉幕府滅亡後,1333年(元弘3)上久世荘は久我家領となったが,36年(延元1∥建武3)足利尊氏が上・下久世荘地頭職を東寺に寄進し,上久世荘は東寺の一円支配地となった(この場合の地頭職は実質的には領家職だったと推測される)。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

久世荘
くぜのしょう

山城(やましろ)国乙訓(おとくに)郡にあった荘園。現在の京都市南区久世にあたる。『和名抄(わみょうしょう)』にみえる「訓世(くぜ)郷」が、その後の開発の進展に伴って、上久世荘、下久世荘、東久世荘(築山(つきやま)荘)、本久世荘(大藪(おおやぶ)荘)に発展、分割されたものと考えられる。このうち築山荘、大藪荘は、中世を通じて久我(こが)家領としてその支配を受けた。上久世荘、下久世荘は、鎌倉時代には得宗(とくそう)領として北条(ほうじょう)氏の所領であったが、1336年(建武3)7月1日、足利尊氏(あしかがたかうじ)は両荘地頭職(じとうしき)を東寺(とうじ)に寄進、以後戦国末に至るまで東寺の寺院経済を支えた膝下(しっか)荘園として重要な地位を占めた。上久世荘は総面積約60町で、畿内(きない)近郊の荘園としては珍しい一円性荘園である。これに対して下久世荘は総面積約80町で、鎌倉時代以来の多数の本所領があり、典型的な入り組み散在性荘園であった。京都西郊の肥沃(ひよく)な水田地帯に位置したため、ここに住む農民の自治に対する意識は高く、早くから農民を中心とした村落組織の形成がみられた。[上島 有]

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世界大百科事典内の久世荘の言及

【検注】より

…荘園的支配が衰退し,農民の勢力が強くなった室町時代になると,農民側から租税減免を目的とする内検注の要求が盛んに出されるようになった。山城の桂川西岸に展開していた東寺領久世荘は,連年桂川のはんらんによる損害を受けたので,水損地のみの内検を東寺に強請し,年貢の軽減を獲得したのは,著名な実例である。【宝月 圭吾】。…

※「久世荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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