改訂新版 世界大百科事典 「久世荘」の意味・わかりやすい解説
久世荘 (くぜのしょう)
山城国乙訓郡(現,京都市南区)にあった荘園。《和名抄》の訓世郷の地。1099年(康和1)には治部卿藤原通俊の所領であり,平安末に安楽寿院領となった。鎌倉時代を経て上久世荘,下久世荘,本久世荘(大藪),東久世荘(築山)に分かれた。本久世荘,東久世荘は安楽寿院を本家と仰ぐ久我家領となり,上・下久世荘は承久の乱後北条得宗が地頭となった。鎌倉幕府滅亡後,1333年(元弘3)上久世荘は久我家領となったが,36年(延元1・建武3)足利尊氏が上・下久世荘地頭職を東寺に寄進し,上久世荘は東寺の一円支配地となった(この場合の地頭職は実質的には領家職だったと推測される)。上久世荘は田畠約60町,年貢米は約230石。ほかに人夫役,ぬか,わら,公事銭を徴収。鎌倉末から南北朝初期にかけて4冊の土地台帳があり,名の解体が進行しつつあった在地構造や農民階層,尊氏による半済の実態がわかる。開発の下司を称する檀上氏や,久我家領時代以来の公文道法(どうほう)はこの時期に没落し,50年(正平5・観応1)以後真板氏が公文となった。南北朝後期から荘外の寺院関係者,高利貸などによる加地子名主職集積が進む。98年(応永5)より真板氏と細川氏被官寒川氏との間で公文職相論が起き,細川氏,畠山氏の対立を背景に,公文の交替が繰り返され,1454年(享徳3)に寒川之光が東寺より公文に任ぜられて一応の決着をみた。村内には大別して公文・侍衆と百姓の2階層があり,惣結合を基盤とし,一体となって年貢減免や井料下行要求などの荘家の一揆を展開した。徳政一揆への参加も見られる。しかし,室町末になると,公文,侍衆の領主化志向によって2階層の乖離が顕在化し,一揆の足並みは乱れた。応仁・文明の乱中,上久世荘は畠山氏に没収され,下久世荘でも足軽四分一済や半済が実施された。77年(文明9)に荘領は回復したが,年貢公事の未進が増大。99年(明応8)には細川政元の半済,1504-07(永正1-4)には政元被官香西元長の半済があり,上久世荘では1501年(文亀1)に細川氏に公文職および公文分田畠を没収され,荘地の過半を失った。東寺はこれら,武家の荘園侵略を排除すべく奔走し,一時的に荘領回復があったが,かつての支配力はなかった。
下久世荘は田畠約80町で,寺社,公家,諸司寮など大小34の領主に分割されている入組荘園であり,最大の領主東寺は,11町余を一円支配するほか,地頭として27町の地に地頭加地子を課した。下司の大江氏は室町初期に没落。公文の藤原氏(後の久世氏)は,1185年(文治1)にすでにこの地に所職を持っており,戦国末まで存続。支配の入組みとは関係なく,下久世郷としては一体であった。上・下久世,大藪,築山は西岡十一ヵ郷の構成員で,共同して桂川の引水による用水管理にあたった。用水をめぐり,十一ヵ郷間や桂川対岸の八条西荘や松尾社との相論も頻発。対岸の石原郷とは舟渡の共同管理を行う。荘園領主の膝下荘園として,戦国時代を通じてかろうじて存続し,1585年(天正13)の太閤検地を迎えた。
執筆者:田中 倫子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報