江戸中期の数学者。通称喜内,沾(扇)数と号した。父は村上佐助義寄といい,備中松山城主水谷左京亮に仕えた。水谷家断絶後は父子とも浪人となる。姓を久留島と改める。義太は独学で数学者として大成したという。中根元圭に見いだされ,数学の力がさらにのびた。弟子の山路主住によれば,義太は天衣無縫で酒を愛し,地位や名誉をかえりみなかったようである。延岡の藩主内藤政樹に数学を教えるのに,酒を飲まねば教えなかったという。生前の著述はまったくなく,彼の業績は不明なところが多いが,没後,門人たちによってまとめられたという遺稿や親友の松永良弼の業績の中からうかがい知ることができる。arcsin x,(arcsin x)2などの展開公式,極値の問題,行列式のラプラス展開,魔方陣の研究,整数論のフェルマー方程式x2-Ny2=±1の解,整数論のオイラーの関数など,きわめて独創的な業績を残した。
執筆者:下平 和夫
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(佐藤賢一)
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江戸中期の和算家。本姓村上。通称は喜内。備中国(びっちゅうのくに)(岡山県)松山藩の浪人。江戸に出て、露店で『塵劫記(じんごうき)』を買い、これ1冊で算法指南の看板を掲げて指南をした。中根元圭(げんけい)の道場破りにあったが、中根は義太の非凡の才を認め、後援を惜しまなかったので、義太の学力は急に伸びた。1730年(享保15)算学をもって内藤政樹(磐城(いわき)国〈福島県〉平(たいら)藩主、のち日向(ひゅうが)国〈宮崎県〉延岡(のべおか)藩主)に召し抱えられた。3年後には学友松永良弼(よしひろ)を主君に推挙し、久留島は国元で、松永は江戸にあって、技能を研鑽(けんさん)しあった。久留島は独創的な人物で、今日残っている断片もその天才をうかがわせる。しかし性格は豪放で、その創意を整理記述することをしなかった。また松永の死後は刺激を失ったためか、その後の業績は存在しない。
[大矢真一]
…和紙が虫に食われやすいことに着目して,加減乗除の計算に欠落個所を作ったパズルである。図4は藤田貞資著の《精要算法》(1781)にある代表的な虫食算であるが,最初に紹介したのは久留島義太著の《算梯》(稿本のため年代不詳)であるらしい。今日の虫食算は図5‐aのような形態となり,小学生や中学生でも取り組めるようになっている。…
…立体方陣も平面の場合と同様に,対称,相結などが考えられる。立体四方陣はP.deフェルマーが最初に作ったが,4本の立体対角線の成立するものは久留島義太が初めて作った。
【歴史】
中近東でもっとも古い方陣を集めたものに,989年ころのイスラムの百科事典がある。…
…彼は暦算の助手として京都の中根元圭を呼び,吉宗に推挙した。中根は,建部の業績を松永良弼(1690ころ‐1744)や久留島義太(?‐1757)に伝えた。久留島は天才と呼ばれるにふさわしい数学者であるがまとめることをせず,親友の松永の著作中にその多くが含まれていると思われる。…
※「久留島義太」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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