改訂新版 世界大百科事典 「日根荘」の意味・わかりやすい解説
日根荘 (ひねのしょう)
和泉国日根郡(現,大阪府泉佐野市)にあった九条家領荘園。日根野荘とも書く。鎌倉中期の1234年(文暦1)同郡日根野,鶴原荒野に四至を占定した官宣旨によって立荘され,天文期(1532-55)まで維持された。九条家領としての立荘以前に,同荒野は高野山鑁阿(ばんな)上人による宝塔三昧院領とする運動があり,1205年(元久2)には宣旨も下されたが,隣接する東北院領長滝荘(殿下渡領)や在地有力寺院禅興寺の反対で実現しなかった。1234年といえば九条教実の摂政期で,長滝荘も事実上教実の管轄下にあったはずであり,この時期に至って東北院側反対の条件は失われたものといえよう。立荘当時の日根荘は鶴原村,井原村,入山田村,日根野村の4村から成っていた。耕地も存在し見作(げんさく)田数はそれぞれ36町1反余,9町6反余,11町9反余,12町1反余であった。入山田村は在家数22宇,井8ヵ所,池2ヵ所,日根野村は岡本,池尻の在家数合わせて16宇,池15ヵ所などの存在が知られる。鎌倉期の日根荘にとって最大の課題は荒野の開発で,1309年(延慶2)九条家は日根荘の惣検注を実施した。翌年には荒野の実検注文も作成されており,惣検が開発事業の推進を重要な目的としていたことが読みとれよう。
惣検の7年後,16年(正和5)には下司(げし)代,公文(くもん)代などにより日根野村絵図が作成された。絵図によれば立荘期12町余であった田地が33町余に達しているが,樫井(かしい)川の扇状台地である村の中央部はなお荒野のままであり,それは60町余であった。注目すべきことは,荒野の小規模開発が荘内百姓によっても行われていたことである。この14世紀初期には久米多寺などによる開発の請負も行われた。日根野村田地は1417年(応永24)には53町余となり,開発努力の結果と思われる。正和の絵図はさまざまな記載を含み,荘園絵図研究の素材になっているが,上記のほか山裾を中心に点在する溜池と田地が不可分の関係にあったこと,池の築造者に久米多寺に属する〈坂の者〉がみえることなどが特に注目される。荘園支配機構についてみれば,長滝荘公文職,同荘弥富方下司職などを兼帯する在地領主日根野氏(本姓中原)が,荘内各村の預所(あずかりどころ)職に補されていた。前記の惣検も同氏によって実行されたのである。その下に下司,公文職が存在していた。
南北朝内乱は日根荘の姿を変えていき,鶴原,日根野村も一時兵粮料所(ひようろうりようしよ)として日根野氏に与えられた。幕府の半済(はんぜい)政策などにより,室町時代まで継承された九条家領は同荘日根野,入山田両村のみであった。九条家一円領となったこの2ヵ村は惣結合を形成し,番頭制村落として展開していった。1431年(永享3),46年(文安3)の両度,領主の異なる日根野,井原,檀波羅蜜寺(だんばらみつじ)の3ヵ村百姓は,日根野村十二谷下池の用水利用や池堤の修築などについて契約状を作成し,村落による灌漑施設の共同利用管理を実現していたのである。1501年(文亀1)荘園領主九条政基は日根荘に下向し,入山田村大木の長福寺を居所として04年(永正1)11月まで直務(じきむ)支配を行った。その間の日記《政基公旅引付(まさもとこうたびひきつけ)》によって,16世紀初頭の村落生活の諸相,九条家の姿勢,守護勢力や根来(ねごろ)寺の動向など,さまざまな姿がとらえられる。しかし天文期以降は他の本所領と同じく九条家領としての実体は失われていった。なお当荘は,番頭制村落から近世村落への道筋をたどる一つの研究素材ともされている。
執筆者:田沼 睦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報