二日市村(読み)ふつかいちむら

日本歴史地名大系 「二日市村」の解説

二日市村
ふつかいちむら

[現在地名]筑紫野市二日市・二日市北ふつかいちきた一―八丁目・二日市南ふつかいちみなみ一―四丁目・二日市西ふつかいちにし一―四丁目・二日市中央ふつかいちちゆうおう一―六丁目・むらさき三丁目・同七丁目・湯町ゆまち二―三丁目・塔原東とうのはるひがし一丁目

北西流する鷺田さぎた川上流部、高尾たかお川流域の平野部にある。北は宰府さいふ村・片野かたの(現太宰府市)日田街道が北西から南東へ通り、筑前二一宿の一つ二日市宿があった。村名の由来はかつて月に二日市が立ったことによる(続風土記)。交通の要衝に位置する大宰府膝下の市として発展していたと考えられる。文明一一年(一四七九)一一月一九日の少弐政資安堵状写(筑紫古文書/大宰府・太宰府天満宮史料一三)によれば、筑紫孫次郎(満門)に安堵された「続命院拾弐町」は「二日市麦野」に散在していた。天正一五年(一五八七)一一月二七日付の安国寺恵瓊書状(太宰府天満宮文書)によれば、太宰府天満宮側からの申出により、井上春忠に対して神事料などとして同宮に打渡すことを進言するよう報じた地のなかに二日市がある。


二日市村
ふつかいちむら

[現在地名]金沢市二日市町

今町いままち村の北に位置。北陸街道が通る。天文二一年(一五五二)七月一七日、「前善坊下カホク二日市道念」が直参衆として本願寺に上番している(天文日記)。天正一四年(一五八六)一月二二日、前田利家が黒津舟くろつぶね権現(現内灘町)再興を命じた村のなかに「二日市村」がみえる(「前田利家印判状写」黒津舟神社文書)正保郷帳によれば高六〇九石余、田方三一町一反余・畑方九町五反余。


二日市村
ふつかいちむら

[現在地名]岡山市岡南町こうなんちよう一―二丁目・旭本町あさひほんまち七日市西町なのかいちにしまち旭町あさひまち

東は岡山城下に続き、西は奥内おくうち村、南は七日市なのかいち村、北は内田うちだ村。「吉備温故秘録」によると東接する城下二日市町は、もと当村のうちに市が立った所で、宇喜多氏統治の時に商家が増えて町を形成、池田光政入封後、城下町に組込まれたという。康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」に「二日市春日ノまつり」とみえ、春日は七日市村の春日神社をさす。

寛永備前国絵図に村名がみえ、高三六六石余。「備陽記」によると田畑二〇町七反余、家数六三・人数三五七、小船一艘。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高六八八石余、蔵入。田高三一五石余・畑高九九石余、家数七八・人数三九六、牛一三、三反帆船・二反帆船・中船各一、樋・分木二、橋八。


二日市村
ふつかいちむら

[現在地名]浜坂町二日市

福富ふくどめ村の南東にある。近世には岸田きしだ川が集落の東方を北流し、久斗くと川に合流していたが、流路変更で現在は集落の西方を流れている。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「二日市」とあり、当地には四良左衛門殿・ゆり殿などが住していた。慶長六年(一六〇一)因幡国若桜藩領、元和三年(一六一七)幕府領、寛永四年(一六二七)旗本宮城領となる。同二〇年宮城氏が無嗣断絶となったため幕府領に復し、寛文八年(一六六八)豊岡藩領となる。


二日市村
ふつかいちむら

[現在地名]倉敷市二日市・倉敷ハイツ

羽島はしま村の南東に位置。北に六間ろつけん川を境に五日市いつかいち村があり、ともに中世の市を推測させる。岩崎いわさき山東端の榜示ぼうじはなを宇喜多土手の西端と想定する説がある。近世初期には旗本帯江戸川領である帯江おびえ村のうちにあったと思われ、以後幕末まで同領。正保郷帳に羽島村の枝村として二日市村がみえ、元禄郷帳には二日市村の記載がある。しかし、正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記では羽島村の枝村として記される。村高は「備中誌」帯江村の注記によれば、元禄(一六八八―一七〇四)の頃四〇〇石。慶応四年(一八六八)の帯江六ヵ村明細帳(尾崎家旧蔵文書)によると、高四二五石余、田二二町四反余・畑六町八反余、家数七五・人数二七七、牛二三、高札場一、用水悪水樋五二、筧四、溜池一。


二日市村
ふつかいちむら

[現在地名]院内町二日市

恵良えら川中流域、院内盆地の中部に位置し、元禄豊前国絵図によれば、恵良川に沿って四日市よつかいち陣屋(現宇佐市)と豊後国玖珠くす郡を結んで南北に走る往還と、下市しもいち(現安心院町)に通ずる往還が交わる交通の要衝にあたる。北は櫛野くしの村、南はそい村。小倉藩元和人畜改帳では高一七二石余、人数四八(うち百姓九・紙漉一)、牛三・馬五。百姓には小庄屋が一名含まれる。延宝八年(一六八〇)には大門組に所属し、人数六三(「人畜帳」庄家文書)。元禄豊前国高帳では高一六五石余。中津藩郷村高帳(中津市立図書館蔵)によれば、享保二年(一七一七)の高一六五石余で、天保三年(一八三二)の下書によると一九一石余、うち二六石余は天明元年(一七八一)までの出高、四石九斗余が新田畑とあり、天保四年の下書によると高一八一石余、九石余の永荒とみえる。


二日市村
ふつかいちむら

[現在地名]瀬戸町二日市

吉井川西岸氾濫原上の集落で、北は梅保木うめほき村。同川流路の変遷により近世は磐梨いわなし郡に属したが、古代には和気わけ郡に含まれていたという。吉井川と東西に通ずる道の交わる要衝であったから早くから市場として栄え、二の日を定市とする三斎市がたったと伝える。吉井川対岸の弓削ゆげ村へ船渡しがあった(備前記)。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)吉岡よしおか庄に村名がみえ、寛永備前国絵図では高二五二石余。「備陽記」によれば岡山京橋(現岡山市)までの道程五里、船路は倉安くらやす川通り一歩蔵(現同上)まで六里半。


二日市村
ふつかいちむら

[現在地名]福井市二日市町

九頭竜くずりゆう川の右岸、南は山室やまむろ村に接する。寛永元年(一六二四)七月一五日付の越前国府中三国領知行帳(佐久間家旧蔵文書)に村名がみえ、高八三五・五一石とある。正保郷帳によれば田方三一〇石・畠方五二五石余。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によると、本多内蔵助の知行地であった。明治三年(一八七〇)の村長印鑑帳(鈴木家蔵)によれば家数八七・人数四一二であった。


二日市村
ふつかいちむら

[現在地名]野々市町二日市町

手取川扇状地北東部、ごう用水の分流大塚おおつか川の流域に位置し、南は三日市みつかいち村。正保郷帳に村名がみえ高四七九石余、田方二八町余・畑方三町八反余、新田二町三反余(免三ツ五歩)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高五四八石、免四ツ五歩(三箇国高物成帳)。同年間の家高数七・百姓数一四(高免付給人帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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