改訂新版 世界大百科事典 「七言詩」の意味・わかりやすい解説
七言詩 (しちごんし)
qī yán shī
中国の詩体名で,7字(7音節)句,または主として7字句によって構成された詩。五言詩とともに中国詩の主要な詩形式であった。押韻,平仄(ひようそく),対句および句数(七言古詩には奇数句より成るものがまれにある)によって,古体の七言古詩と,今(近)体の七言律詩,七言絶句に分類される。なおほかに,七言古詩に含まれるが,初唐に盛行し,長編で叙事的性格をもあわせもった七言の作品,たとえば盧照鄰の〈長安古意〉,駱賓王の〈帝京篇〉などの作品を,楽府の〈歌行〉が音楽演奏を伴うのを原則とするのと区別するため,〈七言歌行〉と呼ぶことがある。また10句以上の律詩は〈七言排律〉と呼びうるが,杜甫に4首あるほかはほとんど類例を見ない。律詩は8句,絶句は4句より成り,平仄に規定があって,同じ韻をふむ必要があり(一韻到底という),律詩は詩中で対句を用いることが要求されるが,古詩は句数(奇数句も可能),平仄に規定がなく,押韻も途中で換韻が可能である。また初期の七言古詩は毎句押韻が普通で,隔句押韻形式をとるのは,劉宋の鮑照(ほうしよう)(414-466)の〈擬行路難〉以後とされている。
《詩経》が基調とした偶数句の四言が,奇数の五言に詩形式の主座を譲り渡した経過,およびおのおのの文学的特性については,〈五言詩〉の項を参照されたい。七言も五言と同じく奇数句で,上4字と下3字との間に小休止を置くが,上4字は2字ずつに区切ることが可能で,五言に上2字を積み重ねた形となっている。今体の平仄も,下5字の平仄配置は五言のそれとまったく合致し,五言の上2字の平仄と反対のものを,七言律詩の上2字に配置すればよい。このように述べると,五言(5字句)が先行して,七言(7字句)は後発して,五言を基礎に形成されたごとくであるが,事実はなかなか簡単ではない。歴史的には五言詩の成立が3世紀の初めの建安期で,七言詩の確立が8世紀前半の盛唐期であるのは事実としても,起源的には,むしろ七言(7字句)のほうが先行した形跡が認められるからである。
七言詩の起源として,従来およそ三つの説が唱えられた。(1)楚辞系説,(2)民間歌謡説,(3)漢武帝時の作品といわれる〈柏梁台体〉詩説である。漢の張衡〈四愁詩〉を初めとする〈七言〉や,先秦両漢の謡諺は,(2)の歌謡に含めてよいであろう。楚辞系とは《楚辞》の〈離騒〉〈九歌〉〈九弁〉などに見える7字句や,その流れを汲む高祖劉邦の〈大風歌〉などの〈楚調〉の詩をさすが,従来七言詩の祖としては,この楚辞系説が最有力であった。しかし7字句のリズム,〈兮(けい)〉字の取扱い,《詩経》にも7字句が見えること,楚辞系6字句の発展経過などよりして,余冠英〈七言詩起源新論〉を初めとして反論が提出され,現在では漢代民間歌謡を七言詩の起源と考える説が有力となった。余冠英が上述論文で,漢代の民間歌謡では五言よりも,七言のほうが有力であったと指摘するのは注目すべきである。
七言はすでに先秦の文献に見られ,中でも戦国末の荀子の〈成相辞〉が重要で,漢代では〈漢鐃(かんどう)歌・戦城南〉〈相和歌・董逃(とうとう)歌〉など《楽府》に採録された作品に発展が見られ,張衡〈四愁詩〉を経て,魏の文帝曹丕(そうひ)〈燕歌行〉で毎句押韻ながらその祖型ができ,鮑照〈擬行路難〉に至って隔句押韻の整った七言詩が誕生し,杜甫の七言律詩〈秋興八首〉〈詠懐古跡五首〉で形式内容の完成を見た。五言によって,錯雑し激動する思想感情の表現が容易となったが,2字多い七言はより豊富により深刻に,心象を造型しうるはずである。五言,七言ともに,活発な民衆のエネルギーを表現する歌謡を起源としたことは,十分に首肯できるところである。
執筆者:伊藤 正文
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報