〈がくふ〉とも呼ばれる。そもそも〈がくふ〉とは,中国前漢時代,宮中の御歌所を指す名称である。やがて長い年月を経て,派生的にある種の楽章・歌詞を〈がふ〉と呼ぶようになった。
〈がくふ〉の名の起りは,前漢の武帝の元狩年間(前122-前117),郊祀(天地を祭る)用の歌を制作するために,長安城内の上林苑に創設された上林〈楽府〉である。その楽府には,郊廟歌(廟とは王家のたまや)・鼓吹曲・俗楽(各地の民歌・胡歌・宮廷人の作歌)の楽章・歌詞があった。そのうち,重要なのは郊廟歌である。この種の楽章は,勅裁を要した。〈がふ〉作家の個人的思惑で作り得ないからであろう。しかし前漢のそれに限らず,歴朝いずれの郊廟歌も,〈がふ〉と呼ばれることはなかった。それでは〈がふ〉と呼ばれるある種の楽章・歌詞とは何か。また,いつの時代からであるか。
3世紀後半に至り,西晋の宮廷では,先朝の魏の楽歌のうち,相和歌と清調曲・平調曲・瑟(しつ)調曲(清商三調という)をうけ継ぐとともに,別に漢・魏の古曲を拾い上げ,大曲と名づけて,宮廷音楽に編入した。それらの古曲が歌唱されるにつれて,宮廷詩人の傅玄(ふげん)・陸機は,それらを主題にした歌詞を作った。かくて,史上初めて,漢・魏の古曲および詩人の主題にした作詞が〈がふ〉と呼ばれるに至った。ある種の楽章・歌詞とは,これらの古曲・作詞を指す。さても,この呼名が,音楽上はもとより,文学上,一般詩に対して,別個の詩的形式,楽府体の生誕を意義づけた。文献上,〈がふ〉と呼ばれたと確認できるのは,西晋2代目の天子,恵帝の時代である。さて,〈がふ〉の呼名は,南朝の宋(5世紀)以後に普遍化した。だが,それに先立ち,死語同様の年代を経た。すなわち永嘉の乱が起こり,西晋の楽府が破壊される(311)や,それにつれて,実に1世紀の間,東晋一代(317-420)を通して〈がふ〉作家は世に出なかったのである。
それはともかく,宋以後の南朝人のいう〈がふ〉には,正声伎(せいせいぎ)(上記の相和歌・清商三調・大曲の総称)のほかに,宮廷歌唱の漢以来の鼓吹曲・舞歌・琴曲の類,また宮廷で歌唱されなかった漢・魏の古曲,それに南朝人自作の古曲を主題にした作歌が含まれる。ところで,南朝の世,長江流域で多数の新曲が流行した。地域別に呉歌・西曲歌という。そのうち,西曲歌中の16曲は,宮廷で舞曲化された。けれどもこれら新曲を〈がふ〉と呼んだのは後の唐人(とうびと)である。では,唐代の実情はどうか。唐代での〈がふ〉は,音楽界と絶縁して,一般詩の範疇に包容された。唐人は,一般詩と同じ立場から,古楽府(漢・魏の古曲,南朝の新曲)を主題に作詞するとともに,史上初めて,歌唱されない詩的形式のものを創作した。新楽府という。作者の意図は,自ら見聞した社会的・政治的事件を主題にして,歌詞上で批判し,広く世人の共鳴を博するにあった。したがって,新楽府は,主情的叙事詩といえる。
執筆者:増田 清秀
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中国古典詩の詩体名。もとは楽曲にあわせて歌われた歌詞で、楽曲により多様な形式があり、一句の字数、一首の句数は一定しない。漢の武帝がつくった宮中の音楽署楽府(がくふ)で盛んに演奏され、制作された歌の意味で、楽府(がふ)の名が生まれた。楽府(がくふ)では各地の民謡を集めると同時に、文人による創作も行われ、宮廷の祭礼・宴会等に演奏した。のちにそれぞれの楽曲を楽府題(がふだい)といい、それに付された歌詞を楽府(がふ)とよぶようになった。
古代の詩歌はほぼみな歌われていたと思われるので、楽府の歴史は遠く漢以前にさかのぼる。とくに宮廷・貴族の祭礼や宴会には楽章を歌い、戦争には軍歌を歌い、民間には日々の喜怒哀楽を歌う数多くの民謡があった。古くは、民情を探るために民謡を集める采(採)詩(さいし)官が置かれたとも伝えられている。つまり、楽府には儀礼歌、軍歌、民謡などがあったのである。漢代に楽府から定型詩の五言詩(ごごんし)が生まれ、音楽から離れた読むための詩が定着すると、楽府と狭義の詩との区別が生じたが、漢・魏(ぎ)以降、文人たちが楽府に興味を示し、魏晋(ぎしん)南北朝期を通じて大量の作品がつくられ、民間でも新しい歌曲が次々に生まれて盛んに流行した。それらの民歌の生気と新鮮な表現は文人たちに大きな影響を与えた。七言定型詩も南北朝期の楽府の盛行のなかから生まれ、定着したのである。
しかし唐代に入ると、それまでの伝統的な音楽が失われ、楽府は単に詩題として楽府題を借り、そのスタイルを模倣するだけの古体詩に変容した。しかし一方では、西域から入った新しい楽曲、あるいは新たに発掘された民歌などによる新しい楽府が流行し、さらには民間的色彩と発想を取り入れた新題の楽府体の詩、いわゆる新楽府がつくられるなど、楽府は多様となった。唐人はすこぶる楽府を好み、七言絶句など近体詩の楽府作品も少なくない。注目すべきは、民情を訴え社会批判を行うために楽府体の詩がつくられたことで、杜甫(とほ)や白居易(はくきょい)に優れた作品がある。先秦(せんしん)・漢から唐・五代までの楽府は、北宋(ほくそう)の郭茂倩(かくもせん)の『楽府詩集』100巻に網羅的に集められている。宋以降の人々は伝統的な楽府にはあまり関心を示さない。楽府の制作は清(しん)末に至るまでけっしてとだえはしなかったが、歌謡としては、宋代に流行した「詞(し)」、元代の「小令(しょうれい)」、明(みん)代の「散曲(さんきょく)」など、新しい歌の制作に力を注いだ。それらも、もとはすべて民間的な歌謡であって、それぞれ楽府の名でよばれることがある。
[佐藤 保]
『増田清秀著『楽府の歴史的研究』(1975・創文社)』▽『小尾郊一・岡村貞雄著『古楽府』(1980・東海大学出版会)』
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…やがて長い年月を経て,派生的にある種の楽章・歌詞を〈がふ〉と呼ぶようになった。 〈がくふ〉の名の起りは,前漢の武帝の元狩年間(前122‐前117),郊祀(天地を祭る)用の歌を制作するために,長安城内の上林苑に創設された上林〈楽府〉である。その楽府には,郊廟歌(廟とは王家のたまや)・鼓吹曲・俗楽(各地の民歌・胡歌・宮廷人の作歌)の楽章・歌詞があった。…
…以下それによってこの体の性格を考えよう。〈――歌〉〈――行〉などの題をもつ作品は〈楽府(がふ)〉体の詩にも多い。しかし《英華》は〈楽府〉と〈歌行〉をはっきり分け,〈楽府〉門には作品1082首(大部分は唐代詩人の作だが,少数の南朝詩人の作を含む)を20巻に分けて収め,〈歌行〉門には(同じく南朝と唐の詩人の作を含む)作品365首をやはり20巻に分けて収める。…
…また《墨子》の公孟篇には,《詩経》の作品を説明して,〈誦詩三百,弦歌三百,歌詩三百,舞詩三百〉といっているが,305編の詩が,すべて歌謡であり,楽舞を伴うものであったことを説明する。 前漢の武帝は元鼎5,6年(前112,前111)ごろ,民間歌曲の採集・保存と演練とをかねて楽府(がふ)という音楽官署を設立したが,以後この楽府は,哀帝の綏和2年(前7)まで続けられた。この音楽官署の設置以来,楽府において集められるべき民間歌曲作品を一律に〈楽府〉と称するようになり,やがては歌謡作品をすべて〈楽府〉とよぶ習慣が生まれた。…
…庾信(ゆしん)の〈哀江南の賦〉は多量の典故を用いて,南朝の滅亡をうたった壮大な叙事詩というべき大作であった。
[楽府]
楽府(がふ)は漢代の宮廷に設けられた役所の名から,その楽人が演奏した曲の歌詞の総称となった。地方の俗謡とそのかえうたを含む。…
※「楽府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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