五郎丸村(読み)ごろまるむら

日本歴史地名大系 「五郎丸村」の解説

五郎丸村
ごろまるむら

[現在地名]小矢部市五郎丸

礪波山となみやま丘陵東麓の五郎丸川左岸、八講田はつこうでん村の南、北市きたいち村の西に位置。浅地あさじ村から松根まつね峠越で加賀国へ至る小原おはら道が通る。慶長一三年(一六〇八)六月の横山長知等算用状(有賀家文書)に五郎丸村とみえ、当村の年貢は同三年から九年までの七ヵ年間で一千七二九俵、このほかに加賀藩から八講田村ともでの買布代三一五俵、これに八講田村の年貢一千四四二俵と合せた計三千四八六俵に対し、布(五郎丸布・八講田布)三千五一八端(米四斗九升につき布一端)を代納(うち当村は一俵余は未納)していた。


五郎丸村
ごろうまるむら

[現在地名]田主丸町地徳ちとく

耳納みのう山地北麓に位置する。上三郡絵図によれば屋敷地は三明寺さんみようじ竹野たけの徳間とくま各村とともに耳納山地北麓の現大字竹野に南北にまとまり、耕地は現大字地徳域内に散在していた。嘉永元年(一八四八)の廻村書留(新有馬文庫)によると、郡奉行木村三郎の山辺やまべ往還の廻村順路は東から上森山かみもりやま・下森山・中原なかばる・五郎丸・善院ぜい大慶寺だいきようじ・三明寺・竹野の順で、この時期当村の屋敷地は現地徳内に移転していたと考えられる。


五郎丸村
ごろうまるむら

[現在地名]砺波市五郎丸

中野なかの村の西にある。村名は昔五郎という者が住んでいた屋敷の跡に村立てしたので五郎丸と称したという(元禄一四年「村名由来書」川合家文書)。一説では五郎という人物が所有した名田であるため五郎丸と称するともいう。「稿本五鹿屋村史」によれば、倶利伽羅くりから峠での合戦に敗れた土山氏という平氏一族の兄弟がおり、一人は埴生はにゆう(現小矢部市)で僧となり、いま一人の五郎丸は当時は荒地であったこの地を開拓したと伝える。


五郎丸村
ごろうまるむら

[現在地名]久留米市みやじん三―六丁目・みや陣町五郎丸じんまちごろうまる

筑後川右岸の自然堤防上にあり、西は国分寺こくぶんじ村。宮地みやのじ渡から松崎まつざき宿(現小郡市)方面に至る筑前街道が通り、一里塚が設けられた(在方諸覚書)。中世は五郎丸名とみえる。延文四年(一三五九)八月六日の大保原合戦の後、高良こうら山の明静みようじよう院の僧が戦死者を集めて葬ったという五万騎ごまんき塚がある。戦国期当地に居住していた近藤氏累代の館という五郎丸館跡もある(筑後将士軍談)

本高は五八〇石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高九九七石余・役高一千七四石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一千一〇七石、文化四年(一八〇七)畝付帳では本田六町六反余・畑田三五町八反余・畑五五町四反余・居屋敷一町四反余。


五郎丸村
ごろうまるむら

[現在地名]立山町五郎丸

常願寺川中流右岸、横沢よこざわ村の西に位置。村名は鎌倉時代曾我五郎正宗が居住したことに由来するという。また曾我十郎・五郎兄弟のうち十郎は曾我そが村に、五郎は当所にとどまったという(五百石地方郷土史要)正保郷帳では高一七五石余、田方一一町四反余・畑方三反、新田高四三石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高二三〇石、免三ツ九歩、小物成は鱒役一匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。宝暦年間(一七五一―六四)の家数九(「高免家数書上」松岡家文書)。天明四年(一七八四)には高二三〇石・銀高二四匁余(「高野用水水下銀仕立覚」杉木家文書)


五郎丸村
ごろうまるむら

[現在地名]菊鹿町五郎丸

木野きの川の最上流域にあり、東から南は上永野かみながの村、西は太田おおだ村、北は上内田かみうちだ村と接する。近世は山鹿やまが郡中村手永に属した。「国誌」に「高三百三十七石余石原村桑原村等小村アリ」とあり、宝暦二年(一七五二)の中村手永御蔵納手鑑には上内田村の枝村から独立したとある。同一一年の下ケ名寄帳によると総畝一七町四反余。同年の地引合帳によると給知は一四町七反余・高二二二石余、うち下々田・畑が七町九反余をしめ、新地は田一反七畝余・高一石九斗余、ほかに二町五反余が野開・楮床など、字山中やまなかには三畝が「舎人殿御赦免開」としてある。二名の庄屋と三二名の本百姓の名がみえる。下ケ名寄帳によると二四の小字があり、うち田畑ともにあるのは石切・山中・嶋廻り・馬瀬戸・箕原など一三、居屋敷には本村・桑原・三郎丸・西谷・原がある。


五郎丸村
ごろうまるむら

[現在地名]塩沢町五郎丸

中野なかの村・中野新田の南西。南西の魚野うおの川上流に枝村丸池まるいけ新田。枝村坪池つぼいけ丸池新田との間にある。文明一八年(一四八六)道興准后の「廻国雑記」に木落きおとし(現中魚沼郡川西町)・うるし山(不明)を越えて「壺池といへる里にしばし休みて」とある「壺池」を坪池とする説がある。正保国絵図に村名がみえ、高三三〇石余。天和三年郷帳では高四二三石五斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では丸池新田と一村に記され、高五三九石五斗余のうち無地高一二石三斗余、新田畑高二二石五斗余。


五郎丸村
ごろうまるむら

[現在地名]富山市水橋五郎丸みずはしごろうまる

上市かみいち川左岸沿いに位置し、北西は小池こいけ村。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高四六七石・免四ツ四歩、小物成は鮭役五匁。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三九八石、鮭役五匁が退転し、鱒役一匁が小物成として新たに加えられている(三箇国高物成帳)。貞享三年(一六八六)の検地引高などで、天保九年(一八三八)には草高三一六石余・免四ツ五歩(「高免等書上帳」折橋家文書)。所属組は文政八年(一八二五)上条組、天保一〇年以降下条組。


五郎丸村
ごろうまるむら

[現在地名]鯖江市五郎丸町・宮前みやまえ一―二丁目・新横江しんよこえ一丁目

王山おうざんの東にあり、東鯖江ひがしさばえ村の南に位置する。村名は中世の名田の遺名か。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図の今南西郡中に村名がみえ、高四〇六・四二石。正保郷帳によれば田方三八〇石余・畠方二五石余。福井藩領。昔、舟津ふなつ神社の社家二〇戸のうち八戸が当村に住し神社に仕えたが、天正年中(一五七三―九二)農に帰したとも伝える(鯖江郷土誌)


五郎丸村
ごろうまるむら

[現在地名]安心院町五郎丸

六郎丸ろくろうまる村の南、津房つぶさ川上流右岸にある。南は若林わかばやし村。村内の字に太郎丸たろうまる大丸おおまるがあり、津房谷には丸の付く地名は七ヵ所あるといわれている。近世の領主の変遷は妻垣つまがけ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高九一五石余、人数三〇五、百姓三七(うち惣庄屋一・庄屋三)・名子一二・牢人一三・寺一、牛四八・馬一三。なおこの数値には六郎丸・若林両村分を含んでいたと思われる。


五郎丸村
ごろうまるむら

[現在地名]犬山市五郎丸

北は犬山いぬやま村、東は前原まえはら新田村、南は善師野ぜんじの川を境にして羽黒はぐろ村に接し、村域を犬山街道が通っている。「徇行記」によれば、高一三一石余が成瀬隼人正給知、高九二五石余が犬山城番知。田七一町一反五畝余・畑一町九反二畝余。「寛文覚書」に高七〇六石余は橋爪村引得、高三五〇石余は前原新田引得とあり、戸数・人数は記されていない。


五郎丸村
ごろうまるむら

[現在地名]那珂川町五郎丸一―二丁目・五郎丸

松木まつのき村の南、那珂川右岸にある。慶長石高帳に五郎丸村とみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高は四一八石余。寛文九年(一六六九)には地押検地が実施された(「筑前国御免帳書抜」九州大学経済学部蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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