橋爪村(読み)はしづめむら

日本歴史地名大系 「橋爪村」の解説

橋爪村
はしづめむら

[現在地名]庄内町高岡たかおか 橋爪・佐平治さへいじなど

大分川左岸に位置し、南は甲斐田かいだ村。文永一一年(一二七四)一〇月二〇日、志賀しか(現福岡市)での蒙古軍との合戦に参加した橋爪兵衛次郎(伏敵篇)の本貫地。豊後国弘安図田帳には宗門むねかど名地頭橋爪兵衛守景がみえる。天正六年(一五七八)二月二〇日の大友氏待屋奉行人連署事書(大友家文書録)に「はし爪之村」とみえ、御主殿作の役として一〇〇貫分が賦課されている。江戸時代を通じて府内藩領で、奥郷橋爪組に属した(府内藩記録)正保郷帳に村名がみえ田高一七〇石余・畑高六四石余、阿南あなん庄に所属。


橋爪村
はしづめむら

[現在地名]養老町橋爪・色目いろめ

安久やすひさ村の西、牧田まきだ川左岸に立地。村西部の象鼻ぞうび(一四二・一メートル)に円墳を中心とする古墳群、字別庄べつしようには四基の古墳がある。村名は「むかし牧田川に長橋ありて、其東の橋詰の里なる故かく名づく」という(新撰美濃志)。奈良時代に建立されたという多芸七坊の一別所べつしよ寺は象鼻山の麓にあったと伝え、別所寺九十九坊の跡地とする一帯が残る。慶長郷帳橋詰村とみえ、高四五九石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳によると徳永昌重(高須藩)領。


橋爪村
はしつめむら

[現在地名]会津高田町橋丸はしまる

氷玉ひだま川と藤川ふじかわ川の合流点近くに位置し、南は藤田ふじた村、東は上荒井かみあらい(現会津本郷町)。本村の南四町に端村田中たなかがあり、田中の小名丸山まるやまはその東三町にある。かつては橋詰と記したが、寛文年中(一六六一―七三)現在の字に改めたという。応安四年(一三七一)四月九日の氏部少輔盛代寄進状案(新編会津風土記)によれば「大沼郡之内橋爪村高蔵寺観音堂、同堂職免」を実相じつそう(現会津若松市)に寄進している。


橋爪村
はしづめむら

[現在地名]姫路市豊富町御蔭とよとみちようみかげ

いち川を挟んで下仁豊野しもにぶの村の東に位置する。慶長国絵図には市川右岸(西岸)に村名がみえる。当村庄屋伊兵衛が書記した年不詳の村絵図(橋爪自治会蔵)でも市川右岸にあり、神西じんさい郡との郡境以南の地を当村地内としている。西に橋爪山が描かれ、北の郡境と広峯ひろみね道との間に橋爪村畑一〇町四反余、その東の市川端に「古来之橋爪村」とあり、家が八軒ほど描かれている。左岸には橋爪村の田地として七町七反余が記されており、伊兵衛の時代の当村の地とみられる。当村は寛永三年(一六二六)頃市川左岸のこの七町七反余の地に移転したと思われ(宝永二年「神西郡仁豊野村明細帳」仁豊野自治会蔵)正保国絵図(内閣文庫蔵)には市川左岸に記されている。


橋爪村
はしづめむら

[現在地名]浜松市中郡町なかごおりちよう積志町せきしちよう

万斛まんごく村の北、安間あんま川右岸に位置。秋葉道が通る。永禄一一年(一五六八)一二月一二日、徳川家康は遠州侵攻の手引きをした菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時(井伊谷三人衆)への恩賞として「まんこく橋つめ」などを与えた(「徳川家康判物写」鈴木重信氏所蔵文書)。その後武田氏が侵入し、天正二年(一五七四)九月一〇日には、武田勝頼が松井山城守に橋爪一一〇貫文などを与えている(「武田勝頼判物写」土佐国蠧簡集残篇)


橋爪村
はしづめむら

[現在地名]大野市橋爪

きようヶ岳南面裾野の南端にあり、北は坂谷六呂師さかたにろくろし村、南は蓑道みのみち村。慶長三年(一五九八)七月二一日の越州大野郡之内橋つめ村御検地帳(経岩家文書)によれば田方一四町九反・畠方二町六反余、村高二七七石一斗六升、ほかに四二石七斗が荒、名請人は二二名。正保郷帳によれば田方一九四石余・畠方八二石余。初め福井藩領、寛永元年(一六二四)木本藩領、同一二年福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領。


橋爪村
はしづめむら

[現在地名]松任市橋爪町・中奥町なかおくまち

長竹ながたけ村の南に位置し、南東は福正寺ふくしようじ村・橋爪新はしづめしん村。ごう用水の分流吉名よしな川が集落の東を南北に貫流する。「はいづめ」ともよばれる。「石川訪古遊記」によれば、村名は中村なかむら川に架けられた橋の橋詰の集落であったことに由来するという。縄文時代前・中期の石斧が出土する橋爪松の木はしづめまつのき遺跡、橋爪遺跡がある。慶長三年(一五九八)九月五日の前田利家宛行状(小幡文書)に橋爪村二千七〇一俵余とみえる。正保郷帳では橋爪村・橋爪新村の高一千三四石余、田方六五町七反余・畑方三町二反余。


橋爪村
はしづめむら

[現在地名]瑞穂町字橋爪

中台ちゆうだい村の北西に位置する。つづみ山の北から西に集落が広がり、村内を高屋たかや川が東に流れる。村の西端檜山ひのきやまで、田辺たなべ(現舞鶴市)から山家やまが(現綾部市)を通って下ってきた京街道と、福知山からの京街道が合流し、中台を通って園部そのべ方面に向かう。東は紅井くれない(現丹波町)、西は和田わだ村・大朴おぼそ村、北は諸内もろち村。

檜山は文明元年(一四六九)八月一一日付京極持清書状(「萩藩閥閲録」所収中川与右衛門家文書)に「於檜山合戦之時、被官人致太刀打、手負候由」と記され合戦場となっている。


橋爪村
はしづめむら

[現在地名]犬山市橋爪

北は犬山いぬやま村、南は善師野ぜんじの川を境にして羽黒はぐろ村に接し、村域を犬山街道が通っている。高二一一石余が成瀬隼人正給知、高一千四八九石余が犬山城番知。田六三町八反五畝余・畑六八町一反七畝余。ほかに給人起しの田畑九町五反二畝余、給人山の松山三〇〇町歩。寛文一一年(一六七一)の戸数一四三、人数九六七。入会村であった五郎丸ごろうまる村との合計数で、寛政四年(一七九二)子年改では戸数一一二、人数四八二。


橋爪村
はしづめむら

[現在地名]久美浜町字橋爪

川上谷かわかみだに川中流部、久美浜街道に沿って集落をつくる。東に山を背負い、西に耕地が広がる。北は海士あま村、西は坂井さかい村、南はしま村に接する。弥生後期の橋爪遺跡がある。

中世末の丹後国御檀家帳に「あまのはしつめ 家八拾斗」とみえる。また村内に安田やすだの地名があるので、同書に「屋すだ 家十軒斗」とみえるのは当地をさすと思われる。安田に関しては「丹後旧事記」に「大矢田宿禰 人皇十三代成務天皇の臣下即位四年甲戌諸国に立長置稲置神服連の府跡海部の矢須の里を国府とす」と伝承が記される。


橋爪村
はしづめむら

[現在地名]友部町橋爪

涸沼ひぬま川沿いの台地上にあり、東は平町たいらまち村、南は矢野下やのした村・小泉こいずみ村。橋詰村とも記す。中世は宍戸氏の支配下にあったが、文禄元年(一五九二)から佐竹氏領、慶長七年(一六〇二)に秋田氏領となり、同年の御知行之覚(秋田家文書)に村高四六四・〇一石と記される。


橋爪村
はしづめむら

[現在地名]穂高町大字有明ありあけ 橋爪

近世初頭穂高神社(現穂高町)前を通過していた千国ちくに道がからす川を渡る付近に存在した村落。明応一〇年(一五〇一)の三宮穂高社御造宮定日記(穂高神社蔵)に「橋爪」の地名がみえる。

慶安元年(一六四八)の検地帳に、村高は一一八石余で畑地のみの村である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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