井伊氏(読み)いいうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「井伊氏」の意味・わかりやすい解説

井伊氏
いいうじ

江戸時代、彦根(ひこね)藩を領有した譜代大名(ふだいだいみょう)。遠江(とおとうみ)(静岡県)引佐(いなさ)郡井伊谷(いいのや)に住み井伊氏を称した。戦国時代、直盛(なおもり)・直親(なおちか)父子は今川氏に仕えたが、藩祖直政(なおまさ)(直親の子)は1575年(天正3)15歳で徳川家康家臣となり、井伊谷で2000石、その後たびたびの合戦に大功をたて、1590年家康の関東入国に際し、上野(こうずけ)(群馬県)箕輪(みのわ)で12万石を与えられた。1600年(慶長5)関ヶ原の戦功によって石田三成(いしだみつなり)の居城近江(おうみ)(滋賀県)佐和山(さわやま)で18万石を与えられ、嫡子直勝は彦根(滋賀県彦根市)に新城を築いたが、病弱で1614年大坂冬の陣にも出陣できず、家督を弟直孝(なおたか)に譲り、自らは彦根18万石のなかから上野安中(あんなか)で3万石を分与された(この家系はのち三河西尾、遠江掛川を経て越後(えちご)与板(よいた)藩に入封)。直孝は徳川秀忠(ひでただ)に仕え、大坂夏の陣に戦功をたて、1615年(元和1)5万石を加増されて20万石となり、ついで徳川家光(いえみつ)・家綱(いえつな)に仕え、所領も加増され35万石の譜代筆頭大名となった。

 井伊氏は溜間詰(たまりのまづめ)で、土井酒井堀田諸氏とともに大老に任ぜられる家柄であり、直澄(なおすみ)、直興(なおおき)、直幸(なおひで)、直亮(なおあき)、直弼(なおすけ)は大老として幕政の枢機に参与した。彦根藩政史上、経済的にも文化的にも一時期を画したのは、寛政(かんせい)の改革を施行した直中(なおなか)の時代である。1799年(寛政11)には国産方を設置し専売仕法を拡大し、一方、藩校稽古館(けいこかん)を開校した。1862年(文久2)直憲(なおのり)のとき、直弼の失政をとがめられ10万石を削られ25万石となる。

 1869年(明治2)版籍奉還により藩知事、1871年廃藩により免ぜられ、1884年伯爵を授けられた。

[森 安彦]

『中村直勝編『彦根市史 上冊』(1960・彦根市)』『堀田正敦等編『新訂 寛政重修諸家譜12』(1965・続群書類従完成会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「井伊氏」の意味・わかりやすい解説

井伊氏 (いいうじ)

江戸時代の譜代大名の重鎮。浜名湖北辺井伊谷(いいのや)を出身とする遠江の名族である。井伊氏をはじめて名のったのは,系図上,共保(ともやす)のころ(寛弘~寛治。11世紀)といわれるが検討の要がある。おそらく鎌倉時代にいたって在地で武士団を形成し,南北朝内乱時では遠江の国人領主として注目される存在となっていた。井伊氏の活動が歴史上,具体的になるのは戦国争乱期である。家譜によれば,直宗,直盛は今川義元に仕え織田氏との合戦で戦死した。直盛の養子直親は義元の子氏真によって誅殺された。その理由は直親が今川氏の敵対勢力であった徳川家康に寝返るとの中傷があったとされる。井伊氏は一時断絶したが,直政が家康に取り立てられ再興した。家康は三河譜代の有力臣以上に直政を重用し,関東入部時には家臣中最高の12万石を与えた。関ヶ原の戦後,直政は近江佐和山城に配置され京畿(けいき)の押えとされた。江戸時代を通じて井伊氏の居城となった彦根城は,直政の没後の1606年(慶長11)公儀役普請で築城した。初代の城主は嫡子直勝であったが,直勝は病弱のため庶子の直孝が家督を相続した。直勝は上野国安中城3万石を分け与えられ別家となった。直孝系井伊氏(彦根藩主)は5人の大老を出し,つねに幕政の枢機に参与し,35万石の領知高は譜代大名中,別格であった。幕末,直弼の死後,25万石に減知。維新後は伯爵。直勝系井伊氏は三河西尾,遠江掛川に転じ,最後は越後与板2万石となった。維新後は子爵。
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百科事典マイペディア 「井伊氏」の意味・わかりやすい解説

井伊氏【いいうじ】

江戸時代の近江国彦根藩主。譜代(ふだい)大名の重鎮として幕政に参与した。現在の静岡県引佐(いなさ)町(現・浜松市)にあたる遠江国井伊谷(いいのや)を名字の地とする。戦国期,初め今川氏に属したが,直政が徳川家康に仕えて勢威を強め,1590年家康の関東入国とともに上野国箕輪(みのわ)城(現・群馬県高崎市箕郷町)12万石,1601年近江国佐和山(さわやま)城(現,滋賀県彦根市)18万石の城主となった。直政の嫡子(ちゃくし)直勝が彦根城を築城。初代の彦根藩主は直勝の弟直孝で,数回の加増を経て,1633年に30万石(ほかに御用米5万石)となった。その後,5人の大老(たいろう)を出し,幕末の直弼(なおすけ)の死後10万石を減封(げんぽう)されて,明治維新に至る。→井伊直弼

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「井伊氏」の意味・わかりやすい解説

井伊氏
いいうじ

江戸時代の譜代大名。藤原姓。藤原冬嗣の子良門の流れという。平安時代中期,その5世の孫共資は,遠江国引佐郡井伊郷井伊谷に住し,その子共保のとき初めて井伊氏を称した。室町,戦国時代は,今川氏に属したが,直政以来,代々徳川氏の重鎮となった。天正 18 (1590) 年,家康の関東移封とともに上野箕輪 12万石に,関ヶ原の役後の慶長6 (1601) 年には近江佐和山 18万石に封じられた。同9年,嫡子直勝は,近江国彦根に新城を築いて移ったが,病のため,家督を弟直孝に譲り分家。直孝のとき 30万石に増封。江戸時代末期にいたり,安政5 (1858) 年,直弼は,大老となって幕政に重きをなしたが,安政7 (60) 年3月,桜田門外で暗殺された。文久3 (63) 年,直憲は,10万石を減じられたが,明治にいたって伯爵。支流の越後与板の井伊氏は,直勝が分家し,上野安中3万石,三河西尾を経て万治1 (1658) 年,直朝のとき越後与板に移封されたもの。明治にいたって子爵。

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旺文社日本史事典 三訂版 「井伊氏」の解説

井伊氏
いいし

江戸時代の譜代大名。近江国(滋賀県)彦根藩主
もと遠江 (とおとうみ) (静岡県)の豪族で,井伊谷 (いいのや) に住み井伊氏を称した。直政 (なおまさ) が徳川家康に仕えて四天王の一人にあげられ,上野 (こうずけ) 国(群馬県)箕輪 (みのわ) 12万石,のち近江国佐和山18万石の領主となる。長子直勝のとき彦根に移り,その弟直孝のとき加増され35万石。譜代大名中最高の家柄として江戸時代を通じ大老を5人輩出した。特に幕末の直弼 (なおすけ) が有名。代々掃部頭 (かもんのかみ) を称した。

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世界大百科事典(旧版)内の井伊氏の言及

【近江国】より

…85年(貞享2)の膳所城下町は戸数930戸,うち武家屋敷499戸,町家409戸である。 彦根藩井伊氏は大坂の陣後加増され,1633年(寛永10)に下野,武蔵のうち2万石を合わせ30万石,翌年城付預米5万石が付せられた。彦根城下は95年(元禄8)町数53町のうち39町を町家が占めた。…

【大名】より

… 親藩大名では正四位下中将に進む会津松平氏,従四位上中将となる高松松平氏がことに高く,三家の分家の3万石クラスの松平氏や越前,松江の松平氏も従四位下少将になることができた。 譜代大名では,筆頭の井伊氏が正四位上中将と破格で,あと10万石以上の家でまれに従四位下少将に進む者がいたが,ほぼ侍従止りである。それに対し,老中と所司代に就任した大名は,領地高が少なくても従四位下侍従に叙任されるのを例としたので,これらの役職に就けば国主大名と肩を並べるような格式が付与されたことになる。…

【彦根藩】より

…直孝は戦功により15年5万石,17年5万石,33年(寛永10)5万石と加増され,しかも大部分は近江国内の犬上,愛知,神崎,蒲生,坂田,浅井,伊香諸郡にまとめて封地を与えられ,そのほかに幕府城付米5万石を預かり,35万石の格式を有する譜代大名として,彦根藩制の基礎を固めた。 元来,彦根藩は立藩に際し,西国大名に対する監察と京都守護の任を課せられたが,直孝は幕閣にあって秀忠・家光・家綱3代を補佐し,その後も井伊氏は江戸城溜間詰(たまりのまづめ)でかつ常溜席(筆頭)を与えられた。また大老の家格により,井伊氏は初代直政から16代直憲(なおのり)(うち2代再勤)の間,大老職につく藩主は6代(うち1代再勤)を数えた。…

※「井伊氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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