北朝の崇光天皇の第1皇子栄仁(よしひと)親王を初代とする宮家。親王は持明院統の正嫡として皇位を継ぐべき立場にあり,父天皇もその即位を切望したが,同天皇以後の皇位は足利氏に擁立された後光厳天皇(崇光天皇の皇弟)の子孫によって継承された。このため親王の即位はついに実現せず,さらに父天皇の没後はそれまで伝領してきた長講堂領以下の持明院統の所領も朝廷に召し上げられたため親王はすこぶる窮境に陥ったが,やがて伏見荘をはじめ若干の所領を回復して一家の存続を維持し,伏見宮創立の基を開いた。親王の後はその子の治仁王,貞成(さだふさ)親王が相承したが,一方後光厳天皇の皇統は後円融天皇,後小松天皇を経て称光天皇に至って絶えたため,貞成親王の王子彦仁王が後小松上皇の猶子に迎えられて皇位につき,後花園天皇となった。この間の事情は貞成親王の著《椿葉記(ちんようき)》に詳しいが,ここに至って皇位は崇光天皇の子孫に帰するとともに,伏見宮の地位は安泰となり,第24代博明王が1947年に皇籍を離脱するまで,およそ550年の長きにわたって相承された。その間第2代治仁王を除いて,第22代貞愛親王までは代々親王宣下を受け,また江戸時代中期に桃園天皇の皇子貞行親王が第17代を相続したほかは,すべて実系をもって継承された。その宮号は,栄仁親王が父天皇のとき以来ひきつづき伏見の地に居を定めて伏見殿と称されたのに由来する。なお,歴代の中で貞成親王は在世中に太上天皇の尊号を受け(追号を後崇光院という),また貞愛親王は元帥陸軍大将に,その王子の第23代博恭王は元帥海軍大将に任ぜられ,皇族の長老として重きをなした。ちなみに明治維新以後の宮家の中で,梨本,山階,久邇,小松,華頂,北白川,東伏見,賀陽,朝香,東久邇,竹田の11宮家は,いずれも伏見宮の系統から出て新家をはじめたものである。
執筆者:武部 敏夫
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北朝の崇光(すこう)天皇の第1皇子栄仁(よしひと)親王に始まる宮家。1352年(文和元・正平7)崇光天皇の退位をうけて弟の後光厳(ごこうごん)天皇が即位したが,のちに崇光上皇は,持明院統の正嫡である親王の即位を望んで室町幕府に働きかけた。上皇は願いをはたさぬまま死去,親王は出家を余儀なくされた。また父から伝領した長講堂(ちょうこうどう)領以下の持明院統の所領を朝廷に没収されたが,山城国伏見荘などの若干の所領を回復。その遺跡は,子の治仁王,ついで貞成(さだふさ)親王(後崇光院)が相続した。1428年(正長元)称光天皇に皇嗣がなく,貞成の子彦仁王が後小松天皇の猶子(ゆうし)に迎えられて即位,後花園天皇となった。これによって宮家としての立場が安定し,代々親王宣下をうけ,1947年(昭和22)まで続いた。「伏見宮記録文書」を伝える。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…宇多天皇の皇子敦実親王の三男,左大臣源雅信の10世権中納言経資を祖とする。経資の孫重資の後は庭田と田向の2流に分かれ,重資の女資子は崇光天皇に近侍して栄仁親王(伏見宮初代)を生み,また重資の男経有の女幸子は栄仁親王の王子貞成親王(後崇光院)の室となり,彦仁王(後花園天皇)を生むなど,皇室および伏見宮と深い関係があった。庭田家の公家としての家格は羽林家で,権大納言を極官とした。…
…これに次ぐのは後二条天皇の皇子邦良親王に始まる木寺宮で,室町中期まで6代にわたって存続した。次は伏見宮で,北朝の崇光天皇の皇子栄仁親王を初代とし,第23代博明王に至る。ちなみに常磐井宮,木寺宮の初代は大覚寺統の皇統の嫡嗣と定められ,伏見宮は持明院統の嫡流とされた家柄である。…
※「伏見宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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