デジタル大辞泉
「崇光天皇」の意味・読み・例文・類語
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すこう‐てんのうスクヮウテンワウ【崇光天皇】
- 北朝第三代の天皇。光厳天皇の第一皇子。母は正親町(おおぎまち)公秀の娘陽祿門院藤原秀子。名は興仁。貞和四=正平三年(一三四八)践祚(せんそ)、翌年即位。南北朝の抗争により在位三年で廃位された。のち出家。法名勝円心。建武元~応永五年(一三三四‐九八)
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崇光天皇【すこうてんのう】
在位1348年−1351年。光厳天皇の皇子。母は陽禄門(ようろくもん)院三条秀子(さんじょうしゅうし)。名は興仁(おきひと)。伏見宮家の祖。1338年立太子(りったいし),1348年受禅(じゅぜん),1349年に即位式をあげた。1351年足利氏の内訌により尊氏が南朝に一時降伏したため(正平一統),北朝は廃され,翌年光厳・光明両上皇とともに大和賀名生(あのう),のち河内金剛寺(現大阪府河内長野市)に幽閉された。1357年還京して伏見に居住,1392年に出家した。
→関連項目光明天皇|後光厳天皇|正法寺
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崇光天皇 (すこうてんのう)
生没年:1334-98(建武1-応永5)
北朝第3代天皇。在位1348-51年。光厳天皇第1皇子。名は初め益仁,後に興仁と改めた。母は陽禄門院三条秀子。1338年(延元3・暦応1)立太子,48年(正平3・貞和4)受禅,翌年即位式を挙げたが,51年(正平6・観応2)足利氏内紛により尊氏が南朝に一時降伏したため(正平一統)北朝は廃され,その翌年光厳・光明両上皇とともに吉野の賀名生に,後に河内天野山金剛寺に移された。57年(正平12・延文2)還京,伏見に住んだ。その間,光厳上皇より琵琶の奥義を受けた。還京後は御領の返還や,皇子直仁親王の即位を望み幕府に申し入れたがかなえられず,92年(明徳3)落飾し法名を勝円心と称した。98年1月13日65歳で死去。子孫は伏見宮家となり,曾孫彦仁親王は皇位を継いで後花園天皇となった。陵所は京都市伏見区桃山町の大光明寺陵。
執筆者:飯倉 晴武
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崇光天皇
没年:応永5.1.13(1398.1.31)
生年:建武1.4.22(1334.5.25)
南北朝期の北朝第3代天皇。父は光厳天皇,母は内大臣三条公秀の娘秀子(陽禄門院)。初名益仁,のちに興仁と改める。法名勝円心。貞和4/正平3(1348)年践祚。在位4年目の観応2/正平6年,足利尊氏,直義兄弟の抗争が激化,尊氏が直義討伐を目的に南朝と和睦したため,南朝の後村上天皇によって廃され,太上天皇の尊号を受ける。翌年以降,光厳,光明の両上皇,直仁親王らと,大和賀名生(奈良県)や河内(大阪府)金剛寺などを転々と移され,延文2/正平12年に帰京,伏見殿に隠栖した。持明院統の嫡流として,皇子栄仁親王の即位を熱望したが,皇位は同母弟の後光厳天皇の系統に移ったため,かなわなかった。しかし文化的な面では,持明院統の嫡流が重きをおいた琵琶の伝習に励み,秘曲を究め,弟子や栄仁親王が初代となった伏見宮家にこれを伝えた。和歌でも,持明院統の用いた京極派の歌風を維持,伏見殿での歌会などにより,独自の歌壇を形成した。<参考文献>宸翰英華別篇編修会編『宸翰英華 別篇北朝』
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崇光天皇 すこうてんのう
1334-1398 南北朝時代,北朝第3代天皇。在位1348-51。
建武(けんむ)元年4月22日生まれ。光厳(こうごん)天皇の第1皇子。母は藤原秀子(陽禄門院)。光明(こうみょう)天皇のあと即位。室町幕府内で足利尊氏・直義(ただよし)兄弟があらそい,尊氏が南朝にくみして北朝の天皇,皇太子を廃した(正平(しょうへい)一統)ため,在位3年で廃位され太上天皇の尊号をうけた。光厳・光明両上皇とともに,一時南朝側に身柄をうつされたが,のち解放されて京都にもどる。明徳3年出家。応永5年1月13日死去。65歳。墓所は大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は益仁(ますひと),興仁(おきひと)。法名は勝円心。別名に伏見殿。日記に「崇光院御記」。
【格言など】鈴鹿川八十瀬の波の立居にも我が身の為の世をば祈らず(「新千載和歌集」)
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崇光天皇
すこうてんのう
(1334―1398)
北朝第3代天皇(在位1348~51)。名は興仁(おきひと)、益仁(ますひと)、伏見(ふしみ)殿。光厳(こうごん)天皇の第1皇子。母は陽禄門院藤原秀子(父正親町公秀(おおぎまちきんひで))。1338年(暦応1)8月立太子、48年(貞和4)10月践祚(せんそ)、翌年12月即位した。51年(観応2)足利(あしかが)一門の内紛に伴い南北の一時的和議がなると、南朝の後村上(ごむらかみ)天皇が京都に迎えられ、崇光天皇は廃位され、太上天皇の尊号を受けた。翌年北畠顕能(きたばたけあきよし)らの南軍により、光厳、光明(こうみょう)両上皇とともに賀名生(あのう)(奈良県吉野郡)に移された。57年(延文2)京都に帰り伏見殿に住し、92年(明徳3)出家した。陵墓は京都市伏見区桃山の大光明寺陵。
[小野信二]
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崇光天皇
すこうてんのう
[生]建武1(1334).4.22. 京都
[没]応永5(1398).1.13. 京都
北朝第3代の天皇 (在位 1349~51) 。名は興仁 (おきひと) 。光厳天皇の皇子,母は正親町公秀の娘,陽禄門院藤原秀子。正平3=貞和4 (48) 年譲位を受けて翌年即位した。その頃足利方は内輪もめが激しく,足利直義は,兄尊氏と不和で南朝にくだったので,正平6=観応2 (51) 年尊氏,義詮は,やむなく南朝と和睦し,南朝の後村上天皇に降参した。そのため崇光天皇は退位し,太上天皇の尊号を受けた。正平 12=延文2 (57) 年,賀名生から京都に帰って伏見殿に住し,元中9=明徳3 (92) 年出家した。陵墓は京都市伏見区桃山町泰長老の大光明寺陵。
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崇光天皇
すこうてんのう
1334.4.22~98.1.13
在位1348.10.27~51.11.7
光厳(こうごん)天皇の第1皇子。名は益仁(ますひと)・興仁(おきひと)。母は陽禄門院秀子。1338年(暦応元・延元3)親王宣下,立太子。48年(貞和4・正平3)践祚(せんそ)。51年(観応2・正平6)正平一統で廃され,太上天皇の尊号をうける。翌年南朝軍に拉致され,57年(延文2・正平12)帰京。92年(明徳3・元中9)落飾(らくしょく),法名勝円心。98年(応永5)京都伏見殿で没した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
崇光天皇 (すこうてんのう)
生年月日:1334年4月22日
南北朝時代の北朝第3代の天皇
1398年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報