宮家(読み)ミヤケ

デジタル大辞泉 「宮家」の意味・読み・例文・類語

みや‐け【宮家】

親王法親王諸王門跡などの家。
皇族で、宮号を賜り一家を立てたもの。

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精選版 日本国語大辞典 「宮家」の意味・読み・例文・類語

みや‐け【宮家】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 親王・法親王・諸王・門跡などの家。
  3. 皇族で宮号を賜わり、一家を創立したもの。江戸時代の四親王家、明治の山階、梨本、久邇、賀陽(かや)、朝香、東久邇、小松、華頂、北白川、東伏見、竹田などをいい、現在は、秩父・高松・三笠・常陸・高円・桂・秋篠の七家がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「宮家」の意味・わかりやすい解説

宮家 (みやけ)

皇族諸家をいう。令制の皇親制度も中世に至ってまったく衰微し,皇子以下の一家を立て,これを維持することもまれとなった。この間にあって宮家として存立し,皇親の身分を相承したのは,いわゆる世襲親王家である。その初例は鎌倉中期,亀山天皇の皇子恒明親王を始祖とする常磐井(ときわい)宮で,室町中期まで6代にわたって存続した。これに次ぐのは後二条天皇の皇子邦良親王に始まる木寺宮で,室町中期まで6代にわたって存続した。次は伏見宮で,北朝の崇光天皇の皇子栄仁親王を初代とし,第23代博明王に至る。ちなみに常磐井宮,木寺宮の初代は大覚寺統の皇統の嫡嗣と定められ,伏見宮は持明院統の嫡流とされた家柄である。伏見宮創立の後久しく宮家の新立を見なかったが,やがて桂宮有栖川(ありすがわ)宮閑院宮の3宮家が設けられた。桂宮は初め八条宮と称し,1589年(天正17)の豊臣秀吉の奏請によって,翌年正親町天皇の皇孫智仁親王が創立,淑子内親王まで11代にわたって存続し,その間宮号を初め京極宮,さらに桂宮と改めた。有栖川宮は,後陽成天皇の皇子好仁親王が1625年(寛永2)一家を創立して高松宮を称したのに始まる。その後有栖川宮と改称,威仁親王まで10代にわたって継承された。閑院宮は1710年(宝永7)創立,東山天皇の皇子直仁親王を初代とし,第7代春仁王に至る。この宮家の創立が新井白石の献策に由来することは有名である。皇嗣以外の皇子はことごとく出家せざるをえなかった江戸時代にあって,これらの世襲親王家は皇統の控えの家とされる一方,皇子処遇の道を広めるため,宮家に継嗣がない場合には他宮家からの養子を許さず,皇子が入って継承するものとされた。伏見宮に1代,桂宮に7代,有栖川宮に3代の例がある。なお上記の宮号の改称は,皇子相続の際に行われたものである。次いで幕末に及び,伏見宮邦家親王の子朝彦親王が中川宮(明治維新の際中絶,後の久邇(くに)宮),同じく晃親王が山階宮を創立した。両親王は僧籍にあったが,国事参与のため還俗したものである。次に明治に入って,皇族の諸制度も一新され,世襲親王家の制は廃止されたが,一方では皇室の繁栄を企図して,法親王の還俗によるものをはじめとして,多くの宮家が創立された。明治末年の宮家をあげれば,伏見,有栖川,閑院,山階,小松,華頂(かちよう),北白川,梨本,久邇,東伏見,竹田,賀陽(かや),朝香,東久邇の14宮家を数える。これらの宮家も,大正年間に有栖川宮,小松宮,華頂宮が継嗣を欠いて廃絶し,次いで1947年に至り,他の11宮家も当主以下が皇籍を離脱したために宮家の歴史を閉じた。

(1)秩父宮 大正天皇の第2皇子雍仁(やすひと)親王が1922年に創立した宮家。宮号は武蔵の秩父連山にちなむという。秩父宮ラグビー場の名はこの宮を記念するものである。(2)高松宮 大正天皇の第3皇子宣仁(のぶひと)親王の立てた宮家。宮号は有栖川宮の旧称で,1913年有栖川宮威仁親王が没するに際して継嗣がなかったので,大正天皇はとくに宣仁親王にこの旧称を賜い同宮の祭祀を継がせた。(3)三笠宮 大正天皇の第4皇子崇仁(たかひと)親王が1935年成年に達して創立した宮家。(4)常陸宮 昭和天皇の第2皇男子正仁(まさひと)親王が1964年結婚と同時に創立した宮家。(5)高円(たかまど)宮 三笠宮崇仁親王の第3皇男子憲仁(のりひと)親王が1984年結婚と同時に創立した宮家。(6)桂宮 三笠宮崇仁親王の第2皇男子宜仁親王が1988年独立して創立した宮家。(7)秋篠宮 天皇明仁の第2皇男子文仁親王が1990年結婚と同時に創立した宮家。
皇族
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宮家」の意味・わかりやすい解説

宮家
みやけ

皇族で天皇から宮号を賜った家。宮家は、平安末期、親王家が宮号を称したことに始まり、後鳥羽(ごとば)天皇の皇子、皇孫が親王宣下を受け、六条宮を称したのが最初である。鎌倉時代には、後嵯峨(ごさが)、後深草(ごふかくさ)両天皇の皇子、皇孫が、鎌倉将軍宮を継承した。鎌倉末期から南北朝時代には、親王の子孫が代々親王宣下を受ける世襲親王家が成立し、常盤井(ときわい)宮、木寺(きでら)宮、伏見(ふしみ)宮が創立された。伏見宮は、北朝の崇光(すこう)天皇の皇子栄仁(よしひと)親王に始まる持明院統の正嫡で、1947年(昭和22)第24代博明(ひろあき)王の皇籍離脱まで約550年続いた。続いて豊臣(とよとみ)秀吉の奏請で桂(かつら)宮(八条宮、京極宮)が創立された。江戸時代には、後陽成(ごようぜい)天皇の皇子好仁(よしひと)親王が高松宮を創立し、のち有栖川(ありすがわ)宮と改めた。また新井白石の献策で、閑院宮が創立された。伏見、桂、有栖川、閑院の4宮家は、四親王家と称され、明治維新に及んだ。さらに幕末、徳川慶喜(よしのぶ)らの建議で山階(やましな)宮が創立された。ほかに、親王の入室寺院名による仁和寺(にんなじ)宮、聖護院(しょうごいん)宮、官職、元号その他による弾正(だんじょう)宮、建久宮、高陽院宮などの宮号がある。明治以後、伏見宮から分かれた久邇(くに)宮など10宮家が創立され、また大正天皇の皇子が秩父(ちちぶ)、高松、三笠(みかさ)の3宮家を創立した。第二次世界大戦後、11宮家が皇籍を離脱し、現在は、三笠、常陸(ひたち)(昭和天皇第2皇男子正仁親王家、1964年9月創立)、高円(たかまど)(三笠宮憲仁(のりひと)親王家、1984年12月創立)、秋篠(あきしの)(明仁上皇第2皇男子皇嗣文仁(ふみひと)家、1990年6月創立)の4宮家がある。

[村上重良]

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百科事典マイペディア 「宮家」の意味・わかりやすい解説

宮家【みやけ】

皇族で特に宮号を天皇から与えられた家。14世紀初頭,亀山天皇の皇子恒明(つねあきら)親王が常磐井宮(ときわいのみや)と称したのが最初。江戸時代には伏見,桂,有栖川(ありすがわ),閑院(かんいん)等の宮家があった。明治時代に皇室典範が制定されて以後増加し,1947年の皇室典範改正時には14家あったが,秩父,高松,三笠の3宮家を除いてすべて皇族の身分を離れた。その後昭和天皇の第2皇子が1964年に常陸宮(ひたちのみや)家を,今上(きんじょう)天皇の第2皇子が1990年に秋篠宮(あきしののみや)家を創設した。また,三笠宮家第3皇子が1984年に高円宮(たかまどのみや)家を,第2皇子が1988年に桂宮(かつらのみや)家を創設した。秩父宮家は1995年に,高松宮家は2004年に断絶となった。桂宮家は当主の宜仁(よしひと)親王が,2014年6月に独身のまま逝去したことにより断絶となった。
→関連項目閑院宮家北白川宮

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宮家」の意味・わかりやすい解説

宮家
みやけ

皇族で宮号を与えられた家。古くは必ずしも天皇から与えられたものでなく,願い出て許しを受けたもの,一般から呼んだ尊称が自然に宮号化したものもあった。明治以降,朝香宮家,竹田宮家,東久邇宮家をはじめ十数家の宮家が創立されたが,第2次世界大戦後,秩父宮大正天皇の第2皇男子)家,高松宮(大正天皇の第3皇男子)家,三笠宮(大正天皇の第4皇男子)家の三つの直宮家以外の宮家は皇室典範に基づき一斉に皇籍を離れ,廃絶となった。2019年現在,三笠宮家および常陸宮昭和天皇の第2皇男子)家,秋篠宮明仁上皇の第2皇男子)家,高円宮(三笠宮の第3男子)家がある。

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