日本歴史地名大系 「但馬国分寺跡」の解説
但馬国分寺跡
たじまこくぶんじあと
〔古代の国分寺〕
各地の国分寺の建立の契機は、天平一三年(七四一)二月一四日の勅(類聚三代格)による(「続日本紀」では三月二四日)。天平勝宝八歳(七五六)一二月、但馬国ほか二五ヵ国に灌頂幡一具・道場幡四九首・緋綱二条を分ち下し、聖武天皇一周忌御斎会の荘厳具に充てしめるという記事が「続日本紀」同月二〇日条にみえることから、すでに但馬国分寺は完成していたと考えられるが、国分寺以外で周忌御斎会を行ったかもしれないとする説もある。「続日本紀」宝亀八年(七七七)七月一四日条に、但馬国分寺の塔に落雷のあったことが記されていることから、この時点ですでにその全容が整っていたものと想定されている。また昭和五五年(一九八〇)の寺域南東隅の発掘調査によって三六点の木簡が出土、そのうちの年紀木簡から、神護景雲(七六七―七七〇)の頃には三綱などの役僧が置かれ、おもな伽藍は造立され、衆僧が住んで活動が開始されていたことが想定できる。貞観四年(八六二)には従五位上行但馬権守豊井王が公廨を割いて幡一八旒(長さ一丈五尺)を造り、国分寺に施入している(「三代実録」同年一一月二五日条)。「延喜式」主税上の規定によると国分寺料は二万束。しかし創建時国分寺の存続期間については不明な点が多い。塔跡の発掘によれば建物は焼失したことがうかがえるが、これを宝亀八年のことと判断する確証は得られていない。軒瓦はいままでのところ二組の出土しか明らかでないし、先行型式はわずかに認められるが、時代の下るものは検出されていない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報