19世紀後半以降第1次世界大戦の時期にかけてドイツを中心として栄えた哲学上の学派で,カントの哲学を観念論の方向に徹底したうえで復興させることによって,当時盛んであった自然科学的唯物論や実証主義に対抗しようとしたものである。これに属する哲学者としては,その一派であるマールブルク学派のコーエン,ナトルプ,カッシーラー,西南ドイツ学派(バーデン学派)のウィンデルバント,リッケルト,ラスクなどがいる。マールブルク学派はカントに従って自然科学を重視するとともに,論理的構成主義の観念論の方向にカントの観念論を徹底した。それによると,自然科学的に認識された事物は,法則的に関連しあったものとしてあるわけだが,こうした事物は,物事を法則的論理的に関連づけて考える認識主観の思考作用によって生産(構成)されたものだと言える。この意味で,思考は事物をみずから生み出すもの,思惟=存在(事物)であるとされる。だが,それによって生み出されたものは,生(なま)の事物そのものではなく,科学的に思惟されたものにすぎない。事物の名の下にこの種のものだけを問題にする点で,この学派は観念論である。西南ドイツ学派はカントの未開拓の分野であった歴史科学や,歴史の中で生み出される文化と,文化の中に現れている文化価値を重視し,文化価値の観念論の哲学の方向にカントの観念論を徹底した。そこでは,歴史科学の目的は自然科学のように普遍的法則を認識することではなく,個々の歴史的事象の独自の特性をとらえることであるとされ,また,哲学は人間の文化とその基礎である真,善,美,聖などの文化価値を問題にしなければならないとされる。その際,この学派は価値を変化してやまない現実から引き離して普遍的に妥当するものとしたうえで,現実よりも価値を重んじ,現実は価値によってはじめて意味あるものになるとする。ここにこの学派の観念論ないし理想主義がある。
このように,マールブルク学派は思惟=存在(事物)とみて生(なま)の事物の存在を無視した。西南ドイツ学派は文化として形成された生だけを問題にして非合理的な現実の生を無視し,また価値を現実から引き離したために,対立する二つのものが結びついて文化が生ずるのはなぜかの説明に窮してその無力をさらけ出した。こうして第1次世界大戦後の学界の大勢は,より直接的な生の究明を求めて生の哲学や実存哲学やマルクス主義に向かっていった。日本では明治末から始まった桑木厳翼,朝永三十郎,波多野精一,西田幾多郎らによるこの学派,とりわけ西南ドイツ学派の受容は,大正時代に本格的な哲学研究(認識論,哲学史,ドイツ哲学の伝統)を生み出して日本のアカデミー哲学の確立に寄与する一方,その文化価値の哲学は,哲学的文学的な教養を重んずる大正時代の文化主義や個人的な自我の自覚を目ざす教養主義を育てるのに力があった。
→価値哲学
執筆者:関 雅美
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ドイツ哲学の一流派。カント哲学を復興することによって、19世紀前半以降の実証科学の発展に伴う実証主義や唯物論の台頭の前に混迷の度合いを深めていた哲学的思考に新しい道を切り開くことを試みた。19世紀なかば過ぎ、リープマン、ランゲらの「カントにかえれ!」というモットーとともに明確な形をとって現れた。とくに19世紀の終わりから20世紀初めの第一次世界大戦前の時期にかけては、ドイツを中心とするヨーロッパ諸国からわが国に至るまで、広く深い影響を与える思想運動となった。
新カント学派は、一般に、カントの哲学から「超越論的(先験的)方法」を受け継ぎ、そこに基本的立場を置く。すなわち、認識あるいは広くいって人間の文化活動一般の対象や主体を、直接に考察の対象とするのではなく、それらのいずれからも身を引き離したところに視点を設定して、それらの活動の成立する場を対象化する。こうして、それらの構造を客観的に考察し、定着するという姿勢をとるのである。この行き方がとられたのは、この学派の共通のねらいが、一方で、実証主義、唯物論の素朴な客観主義に引きずられることなく、他方でまた、その対極としての神秘的な思弁哲学の主観的恣意(しい)へと流されることもなく、哲学を確固とした学として成立させる領域を開くことにあったからである。
この結果、この学派の哲学は一般に、(1)自然科学をはじめとする人間の認識を対象とする認識批判の形をとり、(2)さらに、超越論的視点からする人間の主観による対象のなんらかの意味での能動的構成に注目する行き方を究極の立場として共有することになった。したがって、コーヘン、ナトルプ、カッシーラーを代表者とするマールブルク学派が、どちらかといえば前述の(1)の契機を表面に出し、ウィンデルバント、リッケルト、さらにマックス・ウェーバーをも含む西南ドイツ学派では、価値哲学による人文・社会科学の基礎づけという形で(2)の契機が目だってみられる。この相違は、大局的にみれば強調点の違いにすぎないともいえよう。
第一次世界大戦を境に、それ以前には大きな影響力をもっていた新カント学派の哲学は、急速にその勢いを失う。これは、この大戦とその後の歴史の現実が、人間の主観性と対象構成に依拠する行き方の限界を、おのずから明らかならしめたためと考えられる。
なお、わが国では、明治末年から大正時代にかけて、桑木厳翼(くわきげんよく)、朝永三十郎(ともながさんじゅうろう)、左右田喜一郎(そうだきいちろう)らによってこの学派、とりわけ西南ドイツ学派の哲学が本格的に移入され、時代の文化主義的風潮とも呼応しながら、一時期アカデミー哲学の主流を形成した。同学派の西洋哲学史観などは、今日までなおその大きな影響をとどめている。
[坂部 恵]
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19世紀後半ドイツに起こった哲学学派。自然科学や実証的諸学が盛んになるにつれ,ドイツ観念論哲学は学的厳密性を欠くと非難された。この哲学蔑視の風潮に対し,「カントに帰れ」を合言葉に,カントの批判主義の方法による諸学の基礎づけが哲学の任務であるとするもの。西南ドイツ学派とマールブルク学派(コーヘン,ナトルプ,カッシラーなど)に分かれる。
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…価値とはなにか,それはどのようにして認識されるのか,価値と事実との関係,価値の体系や上下関係などについて研究する哲学で,ロッツェによって準備され,新カント学派の一つである西南ドイツ学派のウィンデルバントやリッケルトらによって樹立されたものである。19世紀後半以降第1次世界大戦の時期にかけて,ドイツで栄えた価値哲学は,そのころ顕著であった伝統的な価値観の崩壊現象や自然科学的唯物論,実証主義に対決しようとしていたこともあって,われわれが体験する現実の生と価値とを徹底的に対立させる二元論を根本原理とするものであった。…
…そしてそのもとで心理学,社会学,歴史学,言語学など人間諸科学が成立することになるのだが,やがて1890年代に入ると,これら諸科学の内部でも,また一般的な哲学の領域においても,そうした実証主義的風潮への反省ないし反逆がはじまる。哲学の領域では,新カント学派,ディルタイ,ベルグソン,クローチェらの哲学,アベナリウスやマッハの経験批判論がそれであるが,フッサールの現象学もそうした反実証主義の運動のなかから生まれてきたものである。ことに,フッサールが現象学という概念を直接継承するのはマッハからであるから,現象学と経験批判論はこの運動のなかで当初密接に結びついていたと見てよい。…
…また,理論理性と実践理性を区別するとともに自然的傾向性からの道徳的当為法則の独立性を説いたカントに方法二元論を帰する見解もあるが,これには異論もある。方法二元論が明示的に提唱されるようになったのは大陸においては新カント学派,とくに西南ドイツ学派以降であり,英語圏においては20世紀初頭に〈自然主義的誤謬〉批判(倫理的言明を自然的事実言明に還元するのは論理的誤謬であるという批判)を展開したG.E.ムーア以降である。 また,大陸における方法二元論はラートブルフやケルゼンのような法哲学者の思考様式を規定する一方,19世紀末から20世紀初頭にかけての社会科学方法論争の焦点となったM.ウェーバーの没価値性テーゼの哲学的基礎をもなしている。…
※「新カント学派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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