明治時代の裁判官。「こじまこれかた」とも読む。大津事件(湖南事件)当時の大審院長(現在の最高裁判所長官)で、政府の干渉から司法権の独立を守った。天保(てんぽう)8年2月1日、伊予国(愛媛県)宇和島の貧しい士族金子惟彬の次子として生まれる。のち姓を緒方(おがた)、さらに児島と改める。幕末に脱藩して坂本龍馬(さかもとりょうま)らと国事に奔走し、維新後1871年(明治4)より司法省に勤め、裁判官となる。1891年5月、大審院長に任命されて6日後に、滋賀県大津で、巡査津田三蔵(つださんぞう)が来遊中のロシア皇太子ニコライ(後のニコライ2世)に傷害を加えた事件が起こった。時の政府(松方正義(まつかたまさよし)内閣)は、これを口実にロシアが日本に干渉することを恐れて、津田を死刑にしようとしたが、児島は法律の条文にない刑罰を科することはできない(旧刑法112条・116条、2条――罪刑法定主義)として、政府と争い、無期徒刑(現在の無期懲役)の刑を宣告した。この事件は、司法権の独立の先例として知られ、児島は「護法の神」とたたえられた。翌1892年、裁判官たちが花札賭博(とばく)をした事件(司法官弄花(ろうか)事件)の責任をとって辞任し、その後貴族院議員、衆議院議員を務めた。明治41年7月1日死去。
[長尾龍一]
『田畑忍著『児島惟謙』(1961・吉川弘文館)』▽『児島惟謙著、家永三郎編『大津事件日誌』(平凡社・東洋文庫)』
(楠精一郎)
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明治時代の裁判官。伊予国宇和島の出身。1871年(明治4)司法官となり,累進して91年大審院長に就任直後,大津事件に際会した。青木外相のロシア公使に対する事前の約束にしばられた政府は,犯人津田三蔵に皇族に関する刑法規定を準用して死刑とするよう要請したが,児島は外国皇族に関する規定がない以上通常謀殺未遂の罪をあてるよう担当裁判官を説得,無期徒刑を判決させた。彼はこれにより〈護法の神〉と称せられたが,その法意識は人権擁護よりも国権主義にもとづいていた。翌92年大審院判事の花札賭博(弄花)事件の責任をとり辞職,のち貴族院議員に勅選。
執筆者:藤村 道生
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1837.2.1~1908.7.1
名は「これかた」とも。明治期の司法官僚。宇和島藩士出身。品川県権少参事などをへて,1871年(明治4)司法省に入り,翌年司法省判事。名古屋裁判所所長・大審院民事乙局局長・長崎控訴裁判所所長・大阪控訴裁判所所長・大阪控訴院院長などをへて,91年大審院院長。同年5月の大津事件では,犯人津田三蔵に大逆罪を適用して死刑を求める松方内閣の干渉をはねつけ,司法権の独立を守ったとされる。翌92年8月,いわゆる司法官弄花(ろうか)事件に連坐して免職。94年5月から98年4月まで貴族院勅選議員,第6回総選挙で衆議院議員に当選(進歩党)。1905年貴族院議員に復帰。第二十銀行頭取も務めた。
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…そこでこの国際的な約束にしばられた政府は,犯人に刑法116条の天皇,三后,皇太子への危害の条文による死刑を司法部に求めたほか,伊藤博文は戒厳令を考え,青木外相は同条を外国皇族にも適用する緊急勅令を提案したが,いずれも実行にいたらなかった。大審院長児島惟謙は,青木・シェービチ協定の存在を政府から知らされたが,刑法116条でなく通常謀殺未遂を適用するよう,大津地方裁判所で開廷した大審院特別法廷の担当判事を説得した。この結果5月27日大審院は津田に無期徒刑の判決を宣告した。…
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