八日町(読み)ようかまち

日本歴史地名大系 「八日町」の解説

八日町
ようかまち

[現在地名]山形市八日町一―二丁目・十日町とおかまち四丁目・若葉町わかばちよう幸町さいわいちようなど

十日町の南端から西に延びる町。同町に続く羽州街道の両側町で、西は同じく街道沿いに五日いつか町に接し、東は三日みつか町、北は二日ふつか町、南は鉄砲てつぽう町。山羽三山参詣の行者宿が立並び、十日町・二日町とともに城下繁華街の中心地であった。よこ町の法花ほつけ(法華)町は日蓮宗浄光じようこう寺の門前、八幡はちまん町は本通りから六椹むつくぬぎ八幡宮までの小路で、同宮の北参道にあたる。八日の三斎市が立ち(山形故実録)、町名もこれに由来する。

最上義光は山形城下建設にあたって当地を重視、多くの寺社を配した。当初誓願せいがん(現真言宗智山派)門前を境に西が下八日町、東が上八日町と二町に分れ、町の長さは合せて一〇町三三間(最上氏時代城下絵図)。のちに上八日町は三日町となり、寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録には八日町とみえる。正保城絵図では最上氏時代城下絵図の下八日町分(四町二三間)が当町の町域で、以後町域に大きな変化はなかった。


八日町
ようかまち

[現在地名]甲府市中央ちゆうおう二―五丁目

山田ようだ町の南に並行する東西の通りで、甲州道中に沿って成立している町人地。下府中二三町の一町で、さん土居内どいない町の中央部に位置する。西はやなぎ町一―二丁目の間から東はたくみ町一―二丁目の間までで、この間、魚町うおまち通・穴山町あなやまちよう通と交差する一丁目・二丁目・三丁目からなる。町名は古府中時代にあった八日市場の名を移したことによるといい、寛永一三年(一六三六)の柳町伝馬請負証文(県立図書館蔵)にみえる。享和三年(一八〇三)の小間数書上帳(同館蔵)によると北側一九〇間・南側二〇一間半。一丁目と二丁目の間を札の辻ふだのつじとよび高札場があり、一丁目南側角に小間一八間の屋敷を有する当町草分の坂田与一左衛門家があった。同家は初期以来甲府の検断役(のち町年寄)を勤め(「甲府町年寄役覚」同館蔵)、享保九年(一七二四)からは柳町の山本家とともに町年寄を世襲し、扶持方として五人扶持と役地侍屋敷六〇〇坪を給せられた(甲斐国志)

当町は城の南東にあたる商業街の中心地で、「此町へ入ると向ふに八日町見附見ゆ、呉服屋・薬種屋・合羽屋などあり、府中第一のよき所也」と記されるように(裏見寒話)、大商店が多かった。


八日町
ようかまち

[現在地名]久慈市荒町・八日町・十八日町・中町・二十八日町

久慈川下流右岸、大川目おおかわめ村の東部に開かれた浜街道沿いの町場。「雑書」承応二年(一六五三)八月二二日条に「久慈二日町を八日町ニ仕、当月より来年極月迄塩留被仰付被下度候」とあり、この時から八日町と町名を変え八の日に三斎市が開かれ、期限付きながら塩の専売権も付与されたことが知られる。同年一一月には三日みつか町で塩商売をしている者があったため当町の者が二五駄を取押えている。天明三年(一七八三)には塩問屋が任命された(「雑書」など)。寛文四年(一六六四)八戸藩の創設に伴って八戸藩領久慈通を管轄する久慈通代官所が置かれたのをはじめ、鉄蔵・雑穀蔵なども建てられた。宝暦五年(一七五五)には久慈通代官所役屋の改築を長内おさない村の大工が銭四八貫文で請負っている(「八戸藩日記」など)


八日町
ようかまち

[現在地名]八戸市八日町

八戸城下の中央、表町通沿いに位置する町人町。東は十八日じゆうはちにち町、西は三日みつか町、南は朔日ついたち町、北は下番しもばん町に接する。西端は八戸城の大手筋に面し、中央を街路が南西から北東に通る。

文久年間(一八六一―六四)八戸御城下略図に八日町とあり、町家とされる。東端には小路の吉右衛門横きちえもんよこ町がみえる。「八戸藩史料」などによれば盛岡藩時代の寛永六年(一六二九)頃、新井田にいだ城下から町家を移してつくられた町で、十八日町・廿八日にじゆうはちにち町とともにしも町あるいは新井田町と称されたという。雑書の正保二年(一六四五)七月二〇日条に四番鮭を「八戸八日町左京亮と申者持参」、同九月一二日条に「八戸八日町横町織部と申者之家ヨリ火出、同町十軒類火之由」とみえ、寛文元年(一六六一)には酒屋が二軒新規開設を認められている。


八日町
ようかまち

[現在地名]大槌町本町ほんちよう

大槌川を渡った浜街道は向川原むかいかわらを南下、やがて右に折れ西に向かってまっすぐ小鎚こづち川まで延びる。曲り角から二町ばかりの家並が八日町で、木柵を境に四日よつか町が続く。大槌支配録(県立図書館蔵)に、元和元年(一六一五)の盛岡藩主南部利直廻国のとき、八日町一町では伝馬役などを勤めるのが難儀であることがみえ、すでに当時町が開かれていたことが知られる。小槌こづち村に成立した町場であるが、同村からは分離して検断が置かれていた。八の日の三斎市が立てられ、町名は市日に由来する。


八日町
ようかまち

[現在地名]鶴岡市陽光町ようこうまち稲生町いなおいまち美原町みはらまち

鍛冶かじ町の南、南へ延びる小国おぐに(田川)街道沿いにある足軽町。寛永一六年(一六三九)八日町村のうち八斗余をさいて町割された(大泉掌故)。このとき小国街道は当町を通るよう西寄りに変えられた。延宝六年(一六七八)の城下絵図では御足軽町一二〇間とあり、明和七年(一七七〇)の城下絵図(鶴岡市郷土資料館蔵)に八日町とある。


八日町
ようかまち

[現在地名]三戸町八日町・馬喰ばくろう

三戸町の西南に位置し、北東は在府小路ざいふこうじ町、北は二日ふつか町、西は同心どうしん町に続く。寛永初年頃の配置図とみられる三戸御古城図に八日町とある。雑書の慶安二年(一六四九)四月二八日条に「三戸八日町吉左衛門奥郡ニ為自分買調」とあり、当町の商人が紫根取引に携わっている。奥州街道筋にあたるため二日町とともに駅場が置かれていた。駅は二日町と一ヵ月交替で継立てられ、伝馬二五疋、役夫二五人が常置されていたという(三戸郷土史)

寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には家数八八とあり、他の三町とともに「三戸町方」とされる。


八日町
ようかまち

[現在地名]秋田市おお町五丁目の一部

鉄砲てつぽう町の北に位置する。「梅津政景日記」寛永八年(一六三一)一〇月八日条に町名がある。「上肴町記録」に元禄一〇年(一六九七)当時「四丁目倉橋与治兵衛と申者、御領内塩座壱人にて申請、下口、仙北荒屋所之役所を立、久保田は馬苦労町に役所立申候」とありその結果、塩が高値になり、塩座を停止したとあるから、八日町の塩座はそれ以後のことと思われる。元文四年(一七三九)火事により塩蔵が焼失して、塩座を一時止められ、その再興を願った「乍恐以口上書願上候御事」(秋田市史)によれば、八日町の塩座の成立は元文四年以前であり、久保田町内だけの塩販売の特権で、焼印の座札を一人に月三〇文で与え、塩役を徴収し、その余勢で橋普請を受け持とうとした。


八日町
ようかちよう

[現在地名]盛岡市本町通ほんちようどおり二丁目

本町の西に位置する東西二町ほどの商人町で、毎月八日に市が立つ(盛岡砂子)。東西に延びる奥州街道の両側町で、北は大工だいく町、南を外堀が限る。寛永城下図に町名がみえ、西は木戸を境に三戸さんのへ(のちの日影門外小路)に接するが、元文城下図では四ッ家よっや町に接している。天明八年(一七八八)の家数五六・人数三八一(邦内郷村志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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