平安時代の漢詩人,歌人。村上天皇の第7皇子で六条宮,前中書王(兼明親王)に対して後中書王(ごちゆうしよおう)と称される。幼少より慶滋保胤(よししげのやすたね)に師事して学問詩文を学び,その思想的影響を受け,991年(正暦2)には天台宗の重要典籍である湛然の《止観輔行伝弘決(しかんぶぎようでんぐけつ)》に引用された漢籍の出典を明らかにし,これに注解を付けた《弘決外典鈔(ぐけつげてんしよう)》を選述した。本書にあげられた漢籍には現在伝わらないものも多い。博学多識をもって知られ,詩歌のみならず書道,音楽,医術にも通暁していた。自邸に詩人を召して詩会を開き,大江匡衡(まさひら)など当時の文人の庇護者であり,文壇の中心的存在であった。また,藤原公任との間で人麻呂と貫之の歌人としての優劣を論争したことが藤原清輔の《袋草紙》に伝えられている。〈花もみな散りなんのちはわがやどになににつけてか人を待つべき〉(《後拾遺集》巻一)。
執筆者:大曾根 章介
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(朧谷寿)
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平安時代の漢詩人、歌人。また管絃(かんげん)、書道、陰陽道(おんみょうどう)、医術に通じた幅広い趣味教養で知られる。村上(むらかみ)天皇第七皇子で、二品(にほん)中務卿(なかつかさきょう)に進み、六条宮、後中書王(のちのちゅうしょおう)とよばれ、子孫は村上源氏として栄えた。慶滋保胤(よししげのやすたね)に学び、『本朝麗藻(ほんちょうれいそう)』を代表する作者であり、しばしば詩会を催す文人たちの庇護(ひご)者であった。歌は勅撰(ちょくせん)集に約40首入る。藤原公任(きんとう)は、貫之(つらゆき)より人麻呂(ひとまろ)を上とする親王との論争を機縁に『三十六人撰』を選んだという。なお、仏教にも関心が深く『弘決外典鈔(ぐけつげてんしょう)』を撰述している。
[柳井 滋]
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