刀伊の入寇(読み)といのにゅうこう

改訂新版 世界大百科事典 「刀伊の入寇」の意味・わかりやすい解説

刀伊の入寇 (といのにゅうこう)

平安中期の1019年(寛仁3)3月末~4月に,いわゆる〈刀伊の賊〉が大宰府管内に侵入した事件。刀伊とは高麗が蛮族とくに女真を呼んだもの。女真は後に金を建国するツングース系民族で,沿海州地方に住み,狩猟・牧畜を行い,高麗の北辺に接し,海から高麗に侵入・略奪を行っていた。彼らは50余隻の船団でまず対馬・壱岐を襲い,さらに筑前怡土郡等に侵入し,各地で千数百人の人々を捕らえ,老人や子どもを含む四百数十人を殺し,牛馬や犬を殺して食し,穀米を略奪し,民家45宇を焼く等の惨害を与えた。現地最高責任者の中納言兼大宰権帥藤原隆家は,中央政府に急報するとともに,軍を整え防戦を命じた。大宰府軍は勇戦これを撃退し,刀伊は最後に肥前国松浦郡を襲ったが,現地の武力に撃退され退去した。この事件については藤原実資の日記《小右記》や,《朝野群載》所収の大宰府解文などの当時の記録により詳しく知ることができる。活躍した大宰府軍の主力は,現地の武士的豪族の兵力であったと思われる。これら豪族の多くはまた大宰府や国衙等の官人の肩書を有していた。中世武士団への過渡的な地方軍制のあり方が察せられるが,隆家の剛毅な性格がこれら豪族たちを心服させたと思われ,後世九州の有力武士で隆家の子孫と称するものが多い。当初朝廷では侵入者が高麗かもしれないと疑っていたが,隆家は刀伊の追撃に際し,高麗の国境を侵さないよう慎重に命じている。その後,高麗軍が女真の侵入を撃破した際,捕虜の日本人二百数十人を救出,手厚く保護して送還した。それ以前,家族とともに捕らえられていた対馬判官代長岑諸近という者が脱出したが,残した老母を気づかい,禁令を破って高麗に渡り,捕虜の女子若干を伴って帰国,捕虜の状況等を報告した。なお公卿の会議で,賊の撃退は追討の官符到着以前であるので恩賞は不必要という意見が一部から出されたが,貴族政治の形式主義がよくあらわれている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「刀伊の入寇」の意味・わかりやすい解説

刀伊の入寇
といのにゅうこう

平安中期の外敵侵入事件。刀伊とは朝鮮語で夷狄(いてき)のことであるが、日本では沿海州地方に住んでいた女真(じょしん)族をさす。1019年(寛仁3)3月高麗(こうらい)を襲った女真人が50艘(そう)余の船に分乗し、壱岐(いき)、対馬(つしま)に襲来し、ついで筑前(ちくぜん)国(福岡県)怡土(いと)郡を侵し、志麻(しま)郡、早良(さわら)郡を略奪した。壱岐では守(かみ)藤原理忠(まさただ)以下多数が殺害されたり捕らえられて、残る者わずか35人と報告されている。賊船の大きさは12尋(ひろ)ないし8.9尋。一船に檝(かじ)30~40。乗船員数は一艘につき30~40ないし50~60。弓矢をもつ者と盾をもつ者とが組んで一隊となり、10~20隊もが上陸して山野を駆け巡り、馬牛を斬殺(ざんさつ)して食い、捕らえた老人子供は殺し、壮年は船に追い込み、人家を焼き、穀物を奪い、殺された者400余人、捕らえられた者は1000人を超えたという。これに対し大宰府(だざいふ)では当時赴任していた権帥(ごんのそち)藤原隆家(たかいえ)が中心となり、京へ飛駅(ひえき)使を立て通報する一方で、大宰府官人を警固所に派遣し防戦にあたった。賊は警固所を焼こうとして失敗し、筥崎宮(はこざきぐう)を焼こうとした試みも撃退され、現地住人らの奮戦もあり、対馬侵奪以来ほぼ1週間で、日本近海から退散した。賊を撃退できたのは隆家以下の府官人および現地の勇士の健闘によるが、朝廷では、戦功抜群の者に褒賞(ほうしょう)を与えるという指示が出される以前に戦闘が終了していたことを理由に、与える必要がないという公卿(くぎょう)の意見もあり、論功行賞にはあまり積極的でなかったようである。防戦過程において府官人の出動状況や現地住人の戦闘活動のほどが知られ、この事件を介し平安中期軍制の実態を知ることができる。

[森田 悌]

『土田直鎭著『王朝の貴族』(1965・中央公論社)』

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百科事典マイペディア 「刀伊の入寇」の意味・わかりやすい解説

刀伊の入寇【といのにゅうこう】

刀伊とは高麗(こうらい)が蛮族とくに女真(じょしん)族を指して用いた語。女真は大陸の沿海州地方に住み後にを建国するツングース系の民族で,高麗の北辺に接して海から侵入したりしていたが,平安中期の1019年対馬・壱岐・北九州を襲った。大宰権帥(ごんのそつ)藤原隆家らによって撃退されたが,刀伊の入寇は太平に慣れた朝廷・貴族を驚かせた。
→関連項目菊池氏藤原実資

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「刀伊の入寇」の解説

刀伊の入寇
といのにゅうこう

1019年(寛仁3)刀伊の賊が50隻余りの船団で,対馬・壱岐・北九州に襲来した事件。大宰権帥(だざいのごんのそち)藤原隆家の指揮のもと,地元の武士団の奮戦で撃退したが,死者365人,拉致された者1289人という被害がでた。拉致された者のうち300人余りは高麗(こうらい)で保護され,帰国を許されている。事件の顛末は藤原実資の日記「小右記」などにも詳しい。刀伊は朝鮮語の異民族を意味するDoeの音訳といわれるが,当時沿海州地方に住むツングース系民族の女真(じょしん)が朝鮮半島の東海岸を荒らし,南下して北九州地方にまで侵寇したものであろう。

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旺文社日本史事典 三訂版 「刀伊の入寇」の解説

刀伊の入寇
といのにゅうこう

平安中期,刀伊の北九州襲来事件
刀伊とは沿海州の女真人のことで,1019年兵船50余隻で,壱岐 (いき) ・対馬を経て北九州に侵入。平安貴族の太平の夢を破ったが,大宰権帥 (だざいのごんのそつ) 藤原隆家は在地の武士を集めて奮戦,これを撃退した。

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世界大百科事典(旧版)内の刀伊の入寇の言及

【平安時代】より

…中国からは高級織物や書籍などが輸入され,日本の貴族の間に珍重されたが,とくに大量に輸入された宋銭は全国に流通し,商業・経済の発達に大きな役割を果たした。 こうして10世紀後半以降,おおむね平穏な対外関係を保っていた間に,突発的に起きたのが,1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇である。これは遼の支配下にあった女真族の一部族が壱岐・対馬を襲い,北九州にも上陸して寇掠した事件であるが,大宰権帥藤原隆家をはじめ,在地豪族の奮戦によって,短時日の間に撃退することができた。…

※「刀伊の入寇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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