日本歴史地名大系 「切山村」の解説
切山村
きりやまむら
建治三年(一二七七)七月の賀陽資成申状案(上司家文書)に「切山保」とあり、古くは国衙領であった。
慶長五年(一六〇〇)の検地帳では切山村として総高六五七石二斗、同一五年の検地帳では九三九石余、うち田方が六二町で八三七石余、畠方が二一町余で七八石余、百姓屋敷六八とある。毛利輝元が次男就隆に元和三年(一六一七)分知した領知目録(毛利家文書)に、切山村九三九石七斗二升一合とみえるが、同七年には本藩に返し替地を受領している。寛永三年(一六二六)の熊野帳では高一千一七五石余、百姓屋敷六三とあり、繁沢監物家五〇〇石、草刈対馬家六〇〇石、来原左近家先地給七五石余とすべてが給領とある。
切山村
きりやまむら
切山村
きりやまむら
切山村
きりやまむら
切山村
きりやまむら
海岸から一キロ余隔たり、東・西・南の三方を山に囲まれた谷あいの村で、東の
「寛文覚書」によれば、概高九八石余、田地六町二反九畝余・畑地一八町二反二畝余、戸数七、人口九三。将軍上洛・朝鮮使節通行の時人馬を出すとある。「徇行記」によれば「耕田不足ナル故ニ他村ノ田地ヲモ承佃ストナリ、サレハ農業ハカリニテハ渡世ナリカタク大工廿四五人アリテ三州濃州アタリマテモ傭レユキ産業トス、皆小百姓ハカリ也、此村ハ元来山隈ノ薄地ナル故ニ町段延タル所也、サレハ免相ハ高シ」とあり、大工が多いので家作りはよく、小蔵などをもつ。
切山村
きりやまむら
切山村
きりやまむら
切山村
きりやまむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報