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前橋城 まえばしじょう

日本の城がわかる事典の解説

まえばしじょう【前橋城】

群馬県前橋市にあった戦国時代から江戸時代にかけての平城(ひらじろ)。利根川と広瀬川を天然の外堀としていた。江戸時代には前橋藩の藩庁が置かれた城で、今日の前橋市は、この城の城下町として誕生して発展した。その起源については、15世紀末に長野氏の本城の箕輪城(高崎市)の支城として築かれた石倉城をはじまりとするものなど諸説ある。長野氏の一族の長野賢忠(方業)が城主をつとめていたが、1551年(天文20)、上野国に侵攻した小田原北条氏に攻略され、北条氏の城となった。賢忠は長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に逃れ、1560年(永禄3)に景虎は同城を攻め取って、賢忠を城代とした。以来、この城は上杉氏の関東進出の拠点となった。謙信死後の1579年(天正7)、城代の北条(きたじょう)高広が武田勝頼に降伏し、武田氏の城となったが、1582年(天正10)の武田氏滅亡後は織田方の滝川一益が入城した。しかし、同年の本能寺の変後に一益は上野国から撤退し、同城は小田原北条氏の城となった。1590年(天正18)の小田原の役で、豊臣方の浅野長政が同城を攻略。その後は、関東に国替えになった徳川家康が、家臣の平岩親吉を3万3000石に封じて前橋藩が成立した。関ヶ原の戦いの後、甲府へ移封となった平岩親吉に代わって酒井重忠が藩主となった。重忠は城の大改修に着手し、3層3階の天守がこのときつくられた。しかし、中世以来、利根川の氾濫と浸食による被害は大きく、18世紀の初頭には、浸食を受けた本丸が倒壊する危険性が高まり、その移転を余儀なくされた。なお、「前橋」という地名は、17世紀半ばから18世紀初頭ごろに改められたもので、それ以前は「厩橋(まやばし)」と称されていた。1749年(寛延2)、酒井氏が播磨国姫路藩に国替えになり、松平朝矩が藩主となった。以降、前橋藩は松平氏が藩主をつとめて明治に至る。松平氏の治世下も、前橋城は利根川の浸食の危機にさらされたが、松平氏には城を修復する財力がなく、結局、前橋城を放棄して武蔵国川越城(河越城)に移る。この結果、前橋は川越藩の分領となり、陣屋支配となったため、1769年(明和6)に前橋城は破却された。以降、前橋領では城の再建と領主の帰城を願う声が大きくなり、利根川の改修が進んで城が被害を受けるおそれが少なくなったことと、幕末には特産の生糸輸出により松平氏の財力が回復したこともあって前橋城の再築が始まり、1867年(慶応3)に最後の藩主の松平直克が入城した。1871年(明治4)、廃藩置県により前橋城本丸御殿に前橋県の県庁が置かれた。群馬県成立後も県都が高崎から前橋に移され、1928年(昭和3)に老朽化により解体されるまで、本丸御殿が群馬県庁舎として使われた。その本丸跡地には現在、群馬県庁本庁舎(高層ビル)が建っている。また、二の丸跡地は前橋市役所、三の丸跡地は前橋地方裁判所となっており、三の丸外郭は1905年(明治38)に前橋公園として整備された。こうしたことから石垣、土塁、堀などの一部の遺構が比較的良好な状態で残っているが、それ以外は市街地化によりほとんど消失してしまった。なお、前橋城のかつての城門が市内総社町に移築されて現存する。JR両毛線前橋駅からバスで県庁前下車、徒歩1分。◇藩政初期までは厩橋城と称された。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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