勝持寺(読み)ショウジジ

デジタル大辞泉 「勝持寺」の意味・読み・例文・類語

しょうじ‐じ〔シヨウヂ‐〕【勝持寺】

京都市西京区大原野にある天台宗の寺。山号小塩山おしおざん役小角えんのおづの創建で、のち最澄再興と伝える。仁寿年間(851~854)文徳天皇大原野神社別当寺として復興させ、大原院だいげんいん勝持寺と改めた。桜の木が多いので花の寺とよばれる。

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精選版 日本国語大辞典 「勝持寺」の意味・読み・例文・類語

しょうじ‐じ ショウヂ‥【勝持寺】

京都市西京区大原野南春日町にある天台宗の寺。山号は小塩山。寺伝によれば、延暦一〇年(七九一)最澄(さいちょう)が創建したとされる。文徳天皇のとき大原野神社の供僧寺となる。西行手植えと伝えられるものをはじめ桜の木が多く、俗に「花の寺」とも呼ばれる。

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日本歴史地名大系 「勝持寺」の解説

勝持寺
しようじじ

[現在地名]西京区大原野南春日町

小塩おしお山の東山麓にあり、京都盆地への眺望がひらける。小塩山と号し、天台宗。本尊薬師如来。境内に桜樹が多く、満開時には全寺花の下に埋もれるようで「花の寺」と通称される。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔草創〕

寺伝は、白鳳年間(六七二―六八六)に役小角が房舎を建て、薬師如来を安置したのが草創といい、また延暦一〇年(七九一)桓武天皇が最澄に命じて伽藍を建立させ、のち最澄が山王権現の神託により薬師仏を彫って本尊とし、寺号を小塩山大原坊と称したという。「日本紀略」延暦一三年一二月一一日条に「遷置山城国乙訓社仏像於大原寺」とみえるが、この大原おおはら寺は勝持寺をさすか。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「勝持寺」の意味・わかりやすい解説

勝持寺
しょうじじ

京都市西京区大原野(おおはらの)南春日(みなみかすが)町にある天台宗の寺。小塩山(おしおざん)大原院(だいげんいん)と号する。古来境内に桜樹が多く、しばしば花会が催されたことから、「花の寺」の通称で知られる。本尊薬師如来(やくしにょらい)。西行(さいぎょう)法師の住地であり、陽成(ようぜい)天皇誕生の祈願所として有名。役行者(えんのぎょうじゃ)の開創で、最澄(さいちょう)が再興して小塩山大原寺の勅額を受けたと伝えられる。のち文徳(もんとく)天皇(在位850~858)が春日明神(かすがみょうじん)の別当寺として大原院勝持寺と改め、子院49を数える大寺となる。醍醐(だいご)天皇が小野道風(おののとうふう)に書かせた寺額が現存する。のち足利(あしかが)氏の外護(げご)で隆盛を極めたが、応仁(おうにん)の乱(1467~77)に全焼し、いまは天正(てんしょう)年間(1573~92)に再建された本堂や、仁王(におう)門、不動堂などがあり、薬師如来像および厨子(ずし)内薬師小像の2体、金剛力士(こんごうりきし)像は国重要文化財に指定されている。境内に西行庵(あん)がある。

[塩入良道]

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