鎌倉前期の武将。時政の三男。初名時連。畠山重忠の誅伐や和田合戦鎮圧に活躍。1210年(承元4)幕府膝下の武蔵国の国守となり事実上の守護を兼ねる。17年(建保5)相模守。源実朝の死(1219)後の緊迫した公武交渉の一翼をにない,21年(承久3)承久の乱が起こると甥泰時とともに東海道を進撃,後鳥羽上皇軍を破って入京。乱後六波羅探題南方の任にあたり,伊勢,丹波の守護を兼ねる。25年(嘉禄1)鎌倉へ帰り執権泰時のもとで連署となり,のち遠江の守護を兼ねる。39年(延応1)4月泰時が重病のとき,時房は平然として酒宴を続け,非難を受けると〈自分が安心して酒宴できるのも泰時のおかげである。もし泰時が死んだら私も遁世するから,これが最後の宴となるだろう〉と語ったという逸話が示すように,終世変わらず泰時の忠実な協力者であった。子孫は大仏氏,佐介氏を称す。
執筆者:青山 幹哉
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(高橋慎一朗)
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鎌倉前期の武将。時政(ときまさ)の子、義時(よしとき)の弟。相模守(さがみのかみ)、修理権大夫(しゅりごんのだいぶ)歴任。将軍源実朝(さねとも)没後の将軍後継問題に関して、兄執権義時の命で上京し、折衝にあたった。1221年(承久3)後鳥羽(ごとば)上皇の討幕計画をつぶすため、甥(おい)の泰時(やすとき)(義時の子)とともに上京、勝利ののち六波羅(ろくはら)にとどまり、朝廷の監視、乱後の処理にあたった。義時急死(1224)後鎌倉に帰り、連署(れんしょ)となって執権泰時のよき協力者として幕政を指導した。延応(えんおう)2年正月24日死去。
[田辺久子]
1175~1240.1.24
鎌倉前期の武将。幕府の初代連署。父は時政。義時の弟。はじめ時連と称する。たびたびの合戦で戦功をあげる一方,武蔵守として新田開発を推進。1221年(承久3)承久の乱で甥泰時をたすけ東海道軍として上洛。乱後は六波羅探題南方として京都の戦後処理に尽くした。24年(元仁元)義時の死後は泰時とともに鎌倉にもどり,翌年連署に就任。
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