千宗室(読み)センソウシツ

デジタル大辞泉 「千宗室」の意味・読み・例文・類語

せん‐そうしつ【千宗室】

[1622~1697]江戸前期の茶人裏千家の祖。宗旦の四男。号、仙叟せんそう・朧月庵。宗旦の今日庵を継承して、裏千家とよばれる。加賀前田家に仕えた。以後、裏千家宗家は代々宗室を名のる。

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精選版 日本国語大辞典 「千宗室」の意味・読み・例文・類語

せん‐の‐そうしつ【千宗室】

  1. ( 初代 ) 茶人。江戸初期からの裏千家の当主。宗旦の第四子。号は朧日庵、仙叟。玄室、のち宗室。加賀侯前田利常に仕えた。元和八~元祿一〇年(一六二二‐九七

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20世紀日本人名事典 「千宗室」の解説

千 宗室
セン ソウシツ

昭和期の茶道家 裏千家家元(14代目)。



生年
明治26(1893)年7月24日

没年
昭和39(1964)年9月7日

出生地
東京市麻布区(現・東京都港区)

別名
幼名=政之輔,号=淡々斎,無限斎,碩叟

学歴〔年〕
同志社普通部〔大正2年〕卒

主な受賞名〔年〕
紫綬褒章〔昭和32年〕,ブラジル政府コマンドール勲章

経歴
裏千家13代円能斎の長男。明治42年に玄句斎永世と称し、その後、玄句斎宗叔、淡々斎、無限斎と改称した。大正6年伊藤嘉代子と結婚。13年円能斎が死去したため、同年家元を継いで今日庵14代を襲名。14年大徳寺円山要宗から得度を受けた。昭和4年に東山桐蔭荘を落成、豊臣秀吉を顕彰して桐蔭会を作る。12年昭和北野大茶湯、15年千利休350年忌を催し、同年には裏千家全国組織の淡交会を設立。31年には茶道会館を建設し、これを記念して「茶道古典全集」(12巻)を刊行。また32年東京麴町に道場を建設するなど、茶道の近代化を進めた。同年紫綬褒章受章。33、34年には渡欧、渡米、海外への茶の湯普及に務め、国際茶道文化協会を設立。ブラジル政府からコマンドール勲章を受けた。著書に「風興集」「淡々随筆」など。


千 宗室
セン ソウシツ

明治・大正期の茶道家 裏千家家元(13代目)。



生年
明治5年5月(1872年)

没年
大正13(1924)年8月5日

出生地
京都府京都市上京区小川寺

別名
幼名=駒吉,号=円能斎,鉄中,対琉軒

経歴
裏千家12代又玅斎の長男。母猶鹿子について茶道を学び、18歳の時東京に出て名声をあげ、北白川宮小松宮から鉄中、円能斎の号を賜わる。のち京都に戻り、門弟の指導、「今日庵月報」の発刊などに尽力、裏千家の発展に努めた。国師丸釜、十二ケ月棗、銀三宝蓋置など好みの茶道具は多い。


千 宗室
セン ソウシツ

明治・大正期の茶道家 裏千家家元(12代目)。



生年
嘉永6年(1853年)

没年
大正6(1917)年

出生地
京都

別名
幼名=玄室,号=又玅斎(ユウミョウサイ),直叟,幽軒

経歴
京都の名家・角倉伊織の長男。裏千家11代玄々斎の長女・猶鹿子と結婚し、明治4年家元を継ぎ、茶道界衰微のなかでよく家風の維持と茶道の振興につとめた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「千宗室」の意味・わかりやすい解説

千宗室(せんのそうしつ)
せんのそうしつ
(1622―1697)

江戸前期の茶人。裏千家今日庵(こんにちあん)1世。千宗旦(そうたん)後妻の子(四男)。初め玄室、のち宗室といい、仙叟(せんそう)と号す。野間玄琢(げんたく)について医学を修めたが、玄琢の死により家に戻り、1652年(承応1)加賀藩前田利常(としつね)の茶頭(さどう)となる。陶工長左衛門に茶陶(大樋(おおひ)焼)を焼かせ、釜師(かまし)宮崎寒雉(かんち)に茶釜をつくらせ、これが地元における美術工芸興隆の因となった。90年(元禄3)利休百年忌にあたり屋敷内に利休堂を建てた。三千家における祖堂の始まりである。父宗旦が宗左に家督を譲ったあと、北隣に住んで営んだ今日庵を受け継いだことから、宗室の系統を裏千家といい、一般には今日庵の名でよぶこともある。

[村井康彦]


千宗室(せんそうしつ)
せんそうしつ

千宗室

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百科事典マイペディア 「千宗室」の意味・わかりやすい解説

千宗室【せんのそうしつ】

裏千家流の家元。1世宗室〔1622-1697〕は千宗旦の四男。初名は玄室。仙叟と号した。今日庵を継ぎ加賀藩の茶頭となった。8世宗室〔1810-1877〕は玄々斎を号し裏千家中興と呼ばれる。現在の16世(1世宗室から数えると13世。裏千家では千利休から数える)宗室〔1956-〕は坐忘斎と号す。
→関連項目ベスト・ドレッサー賞

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朝日日本歴史人物事典 「千宗室」の解説

千宗室(4代)

没年:元禄10.1.23(1697.2.14)
生年:元和8(1622)
江戸初期の茶人。千宗旦の4男。通称長吉郎,医師名玄室,仙叟,臘月庵と号した。古宗室と追称される。季子であるが,利休の孫としての父宗旦が,さらに追求した侘び茶の境地を茶室今日庵,又隠,寒雲亭と共に継承し,裏千家を確立した。寛永18(1641)年,医師野間玄琢の弟子となるが,4年後に玄琢の死去にあう。慶安4(1651)年名を宗室と改め,翌年には加賀(金沢市)の前田利常に仕官し三の丸に屋敷を賜り,茶道茶具奉行となる。綱紀にも仕え,味噌蔵町に住み,陶工大樋長左衛門,釜師宮崎寒雉などを育成,金沢の地に茶の湯を普及させた。元禄3(1690)年,京都で利休百回忌を主催,千家の中に初めて利休堂を建てた。墓は京都大徳寺聚光院にあるが,金沢の月心寺にも墓塔が存する。<参考文献>千宗左(13代)編『元伯宗旦文書』

(戸田勝久)


千宗室(11代)

没年:明治10.7.11(1877)
生年:文化7(1810)
幕末・明治初年の茶道宗匠。裏千家の当主。三河奥殿(岡崎市)の領主松平乗友の子。10歳のとき千家の養子となる。名は栄五郎。玄々斎,虚白斎,不忘,精中と号した。裏千家を中興,流儀を超えて近代茶道の基礎を確立した。その第1は教授課目の充実と公開(出版)であり,点前を理論的に体系化し,咄々斎(次の間とも14畳)を根本道場として建てた。加えて専門的な教授陣(業躰)を育成し,茶道普及のシステムを完成。明治5(1872)年「茶道の源意」を政府に提出して,茶道の遊芸に属さないことを主張した。室の宗柏(玄華斎,10代宗室認得斎の娘)も女流茶人として高名。<参考文献>納屋嘉治編『玄々斎精中宗室居』

(戸田勝久)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「千宗室」の意味・わかりやすい解説

千宗室
せんそうしつ

[生]1923.4.19. 京都
茶道裏千家今日庵 15世家元。幼名は政興。 14世家元淡々斎千宗室の長男として生れる。 1946年同志社大学経済学部卒業後,ハワイ大学で美学を専攻し人文博士号を取得。 49年京都市大徳寺で参禅得度し,鵬雲斎玄秀宗興居士の号を受けるとともに虚心庵住職となる。 64年 14世の死去に伴って 15世を襲名。茶道文化の普及発展に努め,51年の初渡米以来 50数ヵ国を訪問,フランス政府よりコマンドール芸術文化勲章を授与されたのをはじめ,ブラジル,西ドイツ,イタリア,フィンランドからも勲章を贈られた。 89年文化功労者。 97年文化勲章を受章。『茶の精神』『茶の真諦』『茶経とわが茶道の歴史的意義とその展開』など著書も多い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「千宗室」の解説

千宗室(4代) せん-そうしつ

1622-1697 江戸時代前期の茶人。
元和(げんな)8年生まれ。千家3代千宗旦(そうたん)の4男。千利休の曾孫。父が隠居後いとなんだ今日庵(こんにちあん)をつぎ,裏千家の祖となる。加賀金沢藩前田家につかえる。金沢で陶工大樋(おおひ)長左衛門,釜師宮崎寒雉(かんち)らを指導。元禄(げんろく)3年京都で利休百回忌を主催,利休堂を建てた。元禄10年1月23日死去。76歳。初名は玄室。号は仙叟,臘月庵。茶会記に「仙叟宗室茶会付」。

千宗室(16代) せん-そうしつ

1956- 昭和後期-平成時代の茶道家。
昭和31年6月7日生まれ。裏千家15代千宗室の長男。母は千登三子。昭和57年若宗匠。58年三笠宮崇仁(たかひと)親王第2王女容子(まさこ)と結婚。平成12年京都造形芸術大教授。14年父のあとをつぎ第16代家元となる。今日庵理事長,京都芸術センター館長などをつとめる。京都出身。同志社大卒。前名は宗之。号は坐忘斎。著作に「母の居た場所」「私の二十四節季日記」など。

千宗室(15代) せん-そうしつ

1923- 昭和後期-平成時代の茶道家。
大正12年4月19日生まれ。裏千家14代千宗室の長男。妻は千登三子(とみこ)。昭和39年15代家元をつぐ。世界60ヵ国を歴訪,茶道文化の紹介につくす。今日庵理事長。平成9年文化勲章。14年家元を引退し,玄室を名のる。京都出身。同志社大卒。幼名は政興。号は鵬雲斎(ほううんさい)。著作に「茶の湯」「お茶のこころ」など。

千宗室(11代) せん-そうしつ

1810-1877 江戸後期-明治時代の茶道家。
文化7年生まれ。裏千家11代家元。三河(愛知県)奥殿(おくどの)藩主松平乗友(のりとも)の子。文政2年養子となる。利休二百五十回忌をいとなむ。明治5年「茶道の源意」を政府に提出,また椅子をつかう立礼(りゅうれい)式などを考案した。明治10年7月11日死去。68歳。号は精中,玄々斎,虚白斎。

千宗室(12代) せん-そうしつ

1853-1917 明治-大正時代の茶道家。
嘉永(かえい)6年生まれ。裏千家12代家元。角倉(すみのくら)家から養子にはいる。妻は11代宗室の長女猶鹿子(ゆかこ)。明治初期の衰退期に茶道の維持振興につとめた。明治18年家督をゆずり隠居。大正6年12月8日死去。65歳。京都出身。名は別に玄室。号は直叟,又玅斎(ゆうみょうさい)。

千宗室(8代) せん-そうしつ

1719-1771 江戸時代中期の茶人。
享保(きょうほう)4年生まれ。表千家6代千宗左の3男。兄の7代宗室の急死によって裏千家8代家元をつぐ。長兄の表千家7代宗左と茶事の「七事式(しちじしき)」を制定した。明和8年2月2日死去。53歳。号は一灯,又玄斎(ゆうげんさい),勿々軒(ぶつぶつけん)。著作に「又玄夜話」。

千宗室(14代) せん-そうしつ

1893-1964 大正-昭和時代の茶道家。
明治26年7月24日生まれ。13代千宗室の長男。裏千家14代家元。昭和15年全国組織の淡交会を設立,裏千家発展の基礎をきずく。また国際茶道文化協会を設立,茶道の海外普及にもつとめた。昭和39年9月7日死去。71歳。東京出身。同志社普通部卒。号は碩叟,淡々斎。

千宗室(6代) せん-そうしつ

1694-1726 江戸時代中期の茶人。
元禄(げんろく)7年生まれ。5代千宗室の長男。裏千家6代家元。11歳で父をうしなったため表千家6代家元について修業。伊藤東涯(とうがい)に儒学をまなび,謡曲,画などもよくした。享保(きょうほう)11年8月28日死去。33歳。名は別に宗安。号は泰叟,六閑斎。

千宗室(13代) せん-そうしつ

1872-1924 明治-大正時代の茶道家。
明治5年5月生まれ。12代千宗室の長男。裏千家13代家元。母猶鹿子(ゆかこ)に茶道をまなぶ。千宗旦(そうたん)の二百五十回忌を機に「今日庵月報」を創刊,茶の湯の普及につくした。大正13年8月5日死去。53歳。京都出身。号は鉄中,円能斎。

千宗室(5代) せん-そうしつ

1673-1704 江戸時代前期の茶人。
延宝元年生まれ。4代千宗室の長男。裏千家5代家元。加賀金沢にうまれ,金沢藩につかえ,のち伊予(いよ)松山藩久松家につかえた。以後,裏千家は幕末にいたるまで両藩につかえた。宝永元年5月14日死去。32歳。初名は宗安。号は常叟,不休斎。

千宗室(9代) せん-そうしつ

1746-1801 江戸時代中期-後期の茶人。
延享3年生まれ。8代千宗室の長男。裏千家9代家元。天明8年の大火でやけた今日庵(こんにちあん)などを寛政元年再建した。享和元年9月26日死去。56歳。名は別に玄室。号は石翁,不見斎。

千宗室(7代) せん-そうしつ

1709-1733 江戸時代中期の茶人。
宝永6年生まれ。表千家6代千宗左の次男。6代宗室の養子となり,裏千家7代家元となる。宗乾を名のる。享保(きょうほう)18年3月2日死去。25歳。号は竺叟(ちくそう),最々斎。

千宗室(10代) せん-そうしつ

1770-1826 江戸時代後期の茶人。
明和7年生まれ。9代千宗室の長男。裏千家10代家元。文政9年8月24日死去。57歳。号は柏叟,認得斎。

千宗室 せんの-そうしつ

⇒せん-そうしつ

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367日誕生日大事典 「千宗室」の解説

千 宗室(裏千家14代目) (せん そうしつ)

生年月日:1893年7月24日
明治時代-昭和時代の茶道家。茶道裏千家14世家元
1964年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の千宗室の言及

【裏千家流】より

…千利休を開祖とする茶道の流派の一つ。利休の孫宗旦が不審庵を三男江岑(こうしん)宗左に譲り,北の隣接地に今日庵,寒雲亭さらに又隠(ゆういん)を建てて移り住み,それが末子仙叟に譲られたことにより裏千家が成立。現在の15世に至るまで,代々宗室を名のっている。明治以後,裏千家では職場を中心にした婦人層と女学校への茶の湯普及につとめ,茶道人口の増大を図ったほか,現在では海外への茶道普及にも力を注いでいる。 利休から数えて4世にあたる仙叟宗室は,はじめ医師を志して野間玄琢に師事し,玄室と称していたが,玄琢の死後千家に戻り,のち加賀藩主前田利常の茶道茶具奉行として仕えるところとなった。…

【表千家流】より

…千利休を開祖とする茶道流儀の一つ。代々宗左を名のる。利休の切腹によって千家は一時断絶したが,会津若松の蒲生氏郷に預けられていた利休の子千少庵が豊臣秀吉に召し出され,本法寺前町に屋敷が与えられて千家の再興がはかられ,千家2世となった。それとともに大徳寺の喝食(かつしき)として修行していた少庵の子千宗旦は還俗し,千家3世を継承することとなった。その後,宗旦は不審庵を中心とする本法寺前町の屋敷を三男江岑(こうしん)宗左に譲り,北裏に今日庵(裏千家)を建て,四男仙叟(せんそう)宗室とともに移り住んだ。…

※「千宗室」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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