大阪平野の北部にある丘陵で、北摂山地と淀川低地との間に半円形に広がる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大阪平野の北部に位置する丘陵で,北摂山地と淀川低地との間に半円形に広がる。行政上は吹田市,豊中市,箕面(みのお)市,茨木市にまたがる。北摂山地と東西方向の谷で隔てられた丘陵は,北部が高く標高133.8mを示し,島熊山,待兼山,刀根山などの小丘があるが,南に向かってしだいに低下し,周囲には台地が分布する。千里川,天竺(てんじく)川,高川,糸田川,山田川,大正川などが,丘陵内に多くの浅い谷をつくり放射状に流出する。地層は未固結の粘土,砂,礫(れき)からなる鮮新統から更新(洪積)統の大阪層群で構成され,第四紀地質研究の標準地として著名である。西部地区には古墳が多く,また5世紀末から7世紀にかけての須恵器窯址が丘陵一帯で多数発見され,屈指の須恵器生産地であったことが知られている。平安時代には右馬寮の豊島牧と摂関家領垂水牧が置かれた。
1910年の箕面有馬電気軌道(現,阪急宝塚線・箕面線),21年の北大阪電気鉄道(現,阪急千里線)の開通によって,沿線の住宅地開発が部分的に進んだが,雑木林と竹林で覆われた丘陵と樹枝状の谷の水田という農村景観が大きく変貌したのは,60年代からである。61年に着手された大阪府企業局による千里ニュータウン(1160万m2。計画人口15万)の造成と,70年にその東隣地区で開催された万国博覧会によって,都市化が急激に進展した。地下鉄御堂筋線につづく北大阪急行電鉄の新設,阪急電鉄千里線の延伸,名神高速道路,中国自動車道,近畿自動車道,大阪中央環状線,新御堂筋線の建設など,新たな交通施設の整備が進み,大阪大学,国立民族学博物館,国立国際美術館,日本民芸館,老人総合センター,循環器病センターや船場繊維卸商団地などが進出し,万博記念公園,服部緑地も整備された。ニュータウン周辺でも住宅団地やマンションの建設が相ついだため,丘陵地の原形はほとんど姿を消した。北大阪急行電鉄の終点千里中央駅付近は,デパート,ショッピング・ビル,ホテル,文化ホールが集中し,千里地区の中心となっている。
執筆者:服部 昌之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
大阪平野の北部、吹田(すいた)、豊中(とよなか)、箕面(みのお)、茨木(いばらき)、摂津(せっつ)の各市にまたがる丘陵。千里山丘陵(せんりやまきゅうりょう)ともいう。地形は北に高く、最高134メートル。南に半円形状に低くなる広大な地形から千里山の名が生じた。大阪層群とよばれる鮮新世末から更新世(洪積世)前半にかけて堆積(たいせき)した砂礫(されき)層と粘土層が交互に重なり合っている。火山灰層を何枚も挟み、上部には海成粘土層が多い。雑木林が多く、一部が竹林や果樹園に利用されていたが、1921年(大正10)北大阪電鉄(現阪急電鉄千里線)が千里山駅まで開通、千里山住宅地が出現し、大阪市の郊外住宅地として開け始めた。第二次世界大戦後、千里ニュータウン(広さ1150ヘクタール、計画人口15万人)がつくられ、丘陵の様相は一変した。1970年(昭和45)には日本万国博覧会が丘陵北東部に開催され、跡地は万国博記念公園となり、国立民族学博物館、自然文化園、日本庭園などがある。
[前田 昇]
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