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鈴木貫太郎 すずき かんたろう

美術人名辞典の解説

鈴木貫太郎

海軍大将・男爵。千葉県生。海軍大学卒業。戦後連合艦隊司令長官・軍令部長等を歴任。予備役編入と共に侍従長枢密顧問官となり、二・二六事件で襲撃され重傷を負って侍従長を辞職した。枢密院議長を経て昭和20年に組閣し太平洋戦争の終結を図る。昭和23年(1948)歿、82才。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

鈴木貫太郎

連合艦隊司令長官や軍令部長を歴任。1945年4月、首相に就任、8月15日に総辞職した。首相を辞めた後は、妻タカさんと、関宿町(現在の野田市)で余生を過ごした。タカさんは15年に鈴木元首相と結婚、71年に88歳で亡くなった。

(2015-08-05 朝日新聞 朝刊 千葉全県・2地方)

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百科事典マイペディアの解説

鈴木貫太郎【すずきかんたろう】

海軍大将,政治家。大阪府の生れ。海軍大卒。連合艦隊司令長官,軍令部長を経て1929年侍従長となったが,二・二六事件で重傷を負い辞職。後1944年枢密院議長,1945年4月首相となり主戦派を抑えてポツダム宣言の受諾を決定した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

鈴木貫太郎 すずき-かんたろう

1868*-1948 明治-昭和時代の軍人,政治家。
慶応3年12月24日生まれ。大正12年海軍大将。連合艦隊司令長官をへて14年軍令部長。昭和4年予備役となり侍従長・枢密顧問官を兼任。11年二・二六事件で重傷を負う。19年枢密院議長。20年4月首相に起用され,8月ポツダム宣言の受諾,降伏を決定し,総辞職した。昭和23年4月17日死去。82歳。和泉(いずみ)(大阪府)出身。海軍大学校卒。

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世界大百科事典 第2版の解説

すずきかんたろう【鈴木貫太郎】

1867‐1948(慶応3‐昭和23)
海軍軍人,政治家。和泉国(大阪府)に生まれ,1887年海軍兵学校(14期)卒業。日清戦争従事。98年海軍大学校を卒業ののち,ドイツ駐在武官などを経て日露戦争日本海海戦に参加し,水雷戦の権威となった。その後,海軍兵学校長,艦隊司令長官,呉鎮守府司令長官などを歴任し,1923年海軍大将に昇進した。24年第1艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官,25‐29年海軍軍令部長を務めた。29年侍従長兼枢密顧問官に就任,30年にはロンドン海軍軍縮条約調印を支持した。

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大辞林 第三版の解説

すずきかんたろう【鈴木貫太郎】

1867~1948) 海軍軍人・政治家。和泉国生まれ。連合艦隊司令長官・軍令部長・侍従長・枢密院議長などを歴任。二・二六事件で負傷。1945年(昭和20)4月組閣して、戦争終結の衝に当たった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鈴木貫太郎
すずきかんたろう

[生]慶応3(1867).12.24. 大坂
[没]1948.4.17. 千葉
海軍大将,政治家。 1887年海軍兵学校を卒業。日清戦争には水雷艇長として威海衛夜襲に参加。 1901~04年少佐としてドイツに駐在。軍艦『日進』『春日』を回航して横須賀に帰着。日露戦争では第2艦隊の第5駆逐隊司令,のちに第4駆逐隊司令。『明石』『宗谷』艦長,水雷学校長,『敷島』『筑波』艦長,舞鶴水雷隊司令官,第2艦隊司令官などを経て,14~17年海軍次官。 18~20年海軍兵学校長。 23年大将となり,24年連合艦隊司令長官。 25~29年軍令部長をつとめて,予備役となった。その後,29~36年侍従長兼枢密顧問官であったが,二・二六事件では官邸で反徒の乱入により重傷を負った。 36年男爵。 40年枢密院副議長,44年議長。 45年4月7日に首相となり,8月9日に開かれた最高戦争指導会議ポツダム宣言受諾を主張する東郷外相と,徹底抗戦を主張する陸軍が対立すると,和平派に立って,御前会議を開き天皇の裁断を求めた。8月 15日に総辞職。さらに同年 12月から7ヵ月間枢密院議長。著書に『鈴木貫太郎自伝』 (1965) がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鈴木貫太郎
すずきかんたろう
(1867―1948)

海軍軍人、政治家。慶応(けいおう)3年12月24日、和泉(いずみ)国(大阪府)に生まれる。1887年(明治20)海軍兵学校、1898年海軍大学校卒業。1914年(大正3)から1917年まで海軍次官を務めた。1923年大将になり、1924年連合艦隊司令長官、1925年には軍令部長になった。1929年(昭和4)1月に軍令部長を辞めて、侍従長になり、2月からは枢密顧問官を兼ねた。1936年の二・二六事件では反乱軍に襲撃され、重傷を負った。同年11月に男爵となり、侍従長を辞めた。1940年6月枢密院副議長、1944年8月議長になった。1945年4月7日内閣総理大臣になり、敗戦を決定し、8月15日に総辞職した。1945年12月から1946年(昭和21)6月にかけて、ふたたび枢密院議長を務め、新憲法などの審議にあたった。昭和23年4月17日死亡。[山辺昌彦]
『『鈴木貫太郎自伝』(1949・桜菊会出版部/1968・時事通信社) ▽鈴木貫太郎著『人間の記録24 鈴木貫太郎――鈴木貫太郎自伝』(1997・日本図書センター) ▽花井等著『終戦宰相 鈴木貫太郎』(1997・広池学園出版部) ▽小堀桂一郎著『宰相鈴木貫太郎』(文春文庫)』

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世界大百科事典内の鈴木貫太郎の言及

【内閣総理大臣】より

…戦時体制の下で東条首相は首相権限の強化を強引に推進するが,その東条自身結局は一閣僚の抵抗を排除できず,辞職に追い込まれた。ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議で,対立する主張の決裁を天皇にゆだね,みずからは沈黙によって最善の〈指導性〉を発揮した鈴木貫太郎首相は,天皇制下における首相の極点を体現している。戦後は象徴天皇制の下で議院内閣制が明示の憲法原則となり,首相をとりまく制度上の障害は消滅した。…

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